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# 11 悩める人間

世界中が急激に変化するからであろう、良いことも生まれる反面、新たな悪徳も氾濫している。生成AIの登場は職を失うとか、人間社会を強力に改善するなどなど、極端な意見が乱れ飛ぶ。その様な極論を悪徳と呼ぶかは議論のあるところでもあろう。私も極論を悪徳と十把ひとからげに扱う事には異論がある。
こんな状況で、国家はどうあるべきか?という漠然とした疑問が湧き上がる。

今回は、賢人の意見を紐解いてみる。長文になることをお許しください。

人間として一番尊いものは徳である――松下幸之助のことばである。
徳とはなにか。松下幸之助は、個人の「徳」について言及してる。国家においても「徳」を高めることが大事と説いてる。幸之助はそれを、“国民の良識の程度、民度の高さ”だと考えた。幸之助にとっては、国の問題も、結局は個人に帰結するものだった。
個人のパワーに着目していたわけで、出る釘は撃たれると自分を目立たせない日本社会の問題点を認識していたと思われる。世界で戦える企業に育て上げる過程で、生まれた考えだったのかもしれない。

中庸は孔子が最高の「徳」として説いた概念でもある。「中庸」は、かたよることのない「中」をもって道をなすという意味だ。
また、「極端に多すぎることは少なすぎることと同じくらいによくない」という意味のことわざである「過ぎたるは猶及ばざるが如し」の出典は『論語』にあり、この言葉も孔子が中庸の徳を説いた言葉として知られている。
更には、『論語』に「徳は孤ならず、必ず隣有り」とある。やっぱり人間は一人では生きていけない。他者の応援が必要で、それには徳を掛けることが不可欠と述べている。

儒教的は「徳は人間の道徳的卓越性を表し、具体的にはの五徳やの実践として表される。そして、徳は人間の道徳性から発展して統治の根本原理とされ、治世者の優れた徳による教化によって秩序の安定がもたらされると考えられた。前漢において儒教は「儒教」とは呼ばれず、もっぱら法家思想の法治や刑に対抗する意味で「徳教」と呼んでいたとの事。
儒教思想において重要な規範的価値は、生まれによってではなくその人の徳の現れた実際の量の結果によって社会的地位が決せらるべきであるとも述べている。」と説明されている。人間関係の調和に重きをおく孔子の考えは、国家の統治に利用されるのは当然だったのかもしれない。三國志は、後漢末期の100年近い興亡史であり、その中にも随所に儒教的な価値観が見てとれる。
江戸幕府でも儒学者が深く政治に関わっていた模様で、浅野内匠頭の切腹に至る判断にも関与したとの事である。赤穂浪士の死刑に関しても、荻生徂徠(儒者、綱吉の侍医)林大学頭鳳岡(幕府お抱えの儒者)室鳩巣(加賀藩から幕府の儒者)などが意見を戦わせている。
忠臣蔵に描かれる忠義は民衆に深い共感を与え、現在に至っている。1000年以上前に徳とされたものが今だに日本人の心に根付いているわけで、「ニホンジン、ワカリマセン」という外国人の言葉は分からないでもない。

古代ギリシア以来の西洋の中心的な徳目は主に4つあり、四元徳(しげんとく)とも呼ぶ。枢要徳は、基本的に以下の4つから成る。
知慮・思慮・知恵
勇気 
節制
正義 
徳の反対は悪徳である。古代ギリシャでは、悪徳は愚昧無節操臆病貪欲となるのだろう。
キリスト教神学的悪徳は、偽証強欲憎悪偽善となる。

しかしながら、アリストテレースは徳がいくつか反対物を持ちうることを指摘していた。徳は2つ以上の極端な物の中間として考えられうる(→中庸)。
例えば、悪徳と考える臆病と蛮勇の中間に徳とされる勇気があり、反対と捉えられる。
過度の慎重と過小な慎重の中間に思慮はあり、反対と捉えられている。
より「近代の」徳である寛容は一方における心の狭さと他方における愚鈍さとの2つの極端の中間と考えられるのだが、これらの反対と捉えられる。
従って悪徳は、徳の反対として同定できるが、各々の徳は全て異なる多くの反対物を持つ。要するに徳の反対は多数ある極端なものということだ。
それら極端な悪徳の中間物(中庸)が実は徳ということというわけだ。言い換えると、悪徳の中から徳が生まれると言う解釈にもなる。
価値観が入り乱れる現代では多くの悪徳も生まれ、そこから新たなる徳も現れてくるのだろう。

温故知新とも言えるのだが、国家も徳という概念を織り込むべきだという意見には一理ある。しかし、問題はその徳はどんなものなのだろう?
英語ではvirtueとなるのだが、これはラテン語の力を意味するvirtusから来ているそうだ。西欧での徳は勇気やガッツの意味合いが強そうだ。勿論、それは蛮勇と臆病の中間に位置して、抽出されているのだろう。

現在のプーチンの戦争に駆り出されている多くの兵隊は蛮勇と臆病のカオスなのであろう。そんな中で、勇気が醸成されると、この戦争も終わるのかもしれない。
また、十分の作戦もなく、ウクライナを占領できると考えていたと言われている。これは過小な慎重に織り込まれるのはずだ。ロシア側に過度の慎重を唱える指導者がいれば、中庸として、思慮深い行動を選択できたはずだ。

東洋の徳も同じく中庸からである。寛容などが重視されているのだが、これも西洋の徳に加わってきた。
これは心の狭さと愚鈍の中間から滲み出て来たと考えるのだが、心の狭さと残忍は表裏一体とも言われている。プーチンの戦争は心の狭さと残忍が見え隠れする。これは指導者の気質とも言えるわけで、儒教的にはプーチンは治世者に相応しくないと言える。

今後も世の中の複雑さから色々と悪徳が発生するはずだが、その度に新たな徳が生まれて行く。地球環境に関するものも徳行に加わり始めている。

中庸は孔子が最高の「徳」として説いた概念でもある。「中庸」は、かたよることのない「中」をもって道をなすという意味である。これはアリストテレスの中庸とも多分、同じであろう。古今東西、古から、徳の製造は中庸をもって成されると言う事だ。中庸なくして徳は生まれないのである。これは徳だけでなくて、多くの進歩を生み出す原動力なのかも知れない。

今回は分かりにくい話でした。







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