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初めてのハワイ②2006年6月22日

2006年6月22日午前9時からドイツW杯日本VSブラジルをホテルで観戦。前半34分、玉田選手のシュートがゴール左上に突き刺さる。しかし、ブラジルは前半ロスタイムにロナウド選手のシュートで追いつくと、後半8分、14分、36分に追加点を決め、圧倒的な力の差を見せつけたのだった。

ドイツW杯日本VSブラジルでシュートを打つ玉田選手

日本時間では午前4時に行われたこの試合を観戦した日本人は、今日一日をどんな思いで過ごすのかな。私はホテル前からトロリーバスに乗り、終点のワードウェアハウスまで風に吹かれていた。バスケットボールの試合で賑わうNBCアリーナを右に眺めながら、ワードアベニューを歩き、ホノルル美術館へ。

カラカウア通りを走るワイキキトロリー

ホノルル美術館は、アナ・ライス・クック夫人がコレクションを1927年に公開したことが始まり。南国の気候に対応した風通しのよい建物を6つの中庭を囲むように配置。30室の展示室があり、西洋美術の流れを優れた作品で紹介する一方、日本などアジアと太平洋の島々の美術を素晴らしい展示で概観できる。

ホノルル美術館の正面玄関

東洋と西洋の接点、太平洋の中央に立地する美術館は、どんな視野で美術品を収集すべきかというコンセプトが一貫して維持されていた。時には繊細を極め、時には大胆でユーモラスなアジア・太平洋の造形物。それを生み出した当地域の人々の生命力に接して、意気消沈していた私は勇気づけられたのだった。

中国庭園

次に訪れたビショップ・ミュージアムは、カメハメハ王家最後の直系子孫パウアヒ王女を追悼して、夫のチャールズ・ビショップが1889年に設立。最初の展示室は、ハワイ王家8代100年の歴史を歴代の王の肖像画と王家伝来の美術工芸品で紹介。15時30分からの日本語の案内に間に合った。

ビショップ博物館のカヒリ・ルーム

カメハメハが生まれた頃、ハワイには3人の王がいた。西のカウアイ島はカウムアリイ王、東のハワイ島はカラニオプウ王、その間の島々はマウイ島のカヘキリ王が治めていた。そして1779年、イギリスからジェームズ・クック船長がハワイ島を訪れ、これが発端となって、ハワイは時代の荒波に揉まれていく。

1779年1月、ハワイ島ケアラケクア湾に停泊したレゾリューション号とディスカバリー号

カメハメハは、1782年にカラニオプウ王が亡くなると戦争神を祀る役に就き、1791年にハワイ島を統一。1795年、オアフ島でカヘキリ王の後継者との戦いに勝利。1810年、カウムアリイ王が従い、ハワイを統一。カメハメハの軍隊は、イギリス人達をブレーンに起用し、近代兵器を備えて圧倒的な強さを誇った。

カメハメハ大王の肖像画(ビショップ博物館蔵)

1819年にカメハメハ大王が亡くなると、22歳の息子リホリホがカメハメハ2世(1820~1824)に即位し、伝統的なカプ(禁忌)を廃止し、キリスト教を受け入れたが、英国訪問中に麻疹で客死。

カメハメハ2世の肖像画(ビショップ博物館蔵)

カメハメハの愛妻カアフマヌが摂政として王権を掌握。後を継いだリホリホの弟カウイケアオウリはカメハメハ3世(1825~1855)として1840年の憲法発布、1848年の土地私有制度の導入など国家の近代化を進め、欧米による植民地化を防いだ。

カメハメハ3世の肖像画(ビショップ博物館蔵)

その後、カメハメハ大王の娘・摂政キナウの息子であるリホリホがカメハメハ4世(1856~1863)に即位。少年期に欧米を訪問し、英国では国賓待遇を受けたが、奴隷制度の米国では黒人と間違えられ列車から下ろされそうになった経験があり、親英路線を打ち出した。欧米の伝染病によるハワイ人の激減に直面し、病院を開設。息子が4歳で亡くなって衝撃を受け、翌年に死去。

カメハメハ4世の肖像画(ビショップ博物館蔵)

カメハメハ4世の兄ロットが5世(1864~1872)に即位。王権を強化した新憲法を発布。カウアイ島のサトウキビ農園主で外務大臣ロバート・ワイリーの勧めもあり、農園の労働力不足に対応する組織として移民局を創設。サトウキビ農園発展のために移民を受け入れた。

カメハメハ5世の肖像画(ビショップ博物館蔵)

カメハメハ家は5世で断絶。
議会選出の王位継承者ルナリロ(1873~1874)は、即位して1年25日後に結核で他界。

ルナリロ王の肖像写真(ビショップ博物館蔵)

次に選ばれたカラカウア(1875~1890)は1876年、米国と互恵条約を締結。ハワイの砂糖と米を無関税で輸出できるようになり、サトウキビ農園が急成長。1887年には真珠湾の米国軍事利用を押し切られた。

カラカウア王の肖像画(ビショップ博物館蔵)

カラカウア王は1881年、10カ月に及ぶ世界一周航海に出て、アジア諸国の連盟結成やハワイの労働力不足への協力を要請した。日本では、明治天皇はじめ政府が王を歓迎。このとき王が提案したカイウラニ王女と山階宮定麿親王の国際結婚は実現しなかったが、1885年、日本から「官約移民」がハワイへ旅立った。

日本での記念写真(前列左から、東伏見宮嘉彰親王、カラカウア王、佐野常民・大蔵卿。後列左から、C・H・ジャッド侍従長、得能良介・大蔵省印刷局長、ウィリアム・N・アームストロング国務大臣)

カラカウア王の時代、ハワイ人の人口は激減し、伝統文化はすたれていく。これを憂慮した王は1974年、カメハメハ大王を称えるハワイ王国歌「ハワイ・ポノイ」を作詞。1882年にイオラニ宮殿を新築し、1883年の戴冠式ではフラを復活。1888年、自ら「ハワイの伝説と神話」を著し、創世神話クムリポを公開。

カラカウア王49歳の誕生日を祝ってイオラニ宮殿で披露されたフラ

1891年、兄カラカウアを継いでリリウオカラニ女王が即位。1893年1月14日、王権とハワイ人の権利を取り戻す新憲法の発布を試みるが、米国人側は16日の市民集会で女王を糾弾し、碇泊中の米国巡洋艦に海兵隊の出動を要請。17日、王制の廃止と臨時政府の樹立を宣言。ハワイ王国は崩壊。

リリウオカラニ女王の肖像写真

契機に軍事拠点としてのハワイの重要性を認識した米国は1898年、ハワイを併合……。そんな歴史物語を聞いてから、古代ポリネシア人から受け継いだハワイ人の生活文化、19世紀に移民した日本人・韓国人・フィリピン人の衣装等の展示を眺め、博物館を出た。

ビショップ博物館ハワイアンホールの展示

帰り道、チャイナタウンを過ぎてしばらく歩くと、左にイオラニ宮殿、右にカメハメハ大王のブロンズ像が見えた。カラカウア王が1883年に建立した黒くたくましい大王像は、金色のケープと金色の王冠で輝いている。王は、左手に槍をもち、右手を宮殿にむけて差し出し、何事かをハワイ人に問いかけている。

アリイオラニ・ハレのカメハメハ大王像

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