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初めてのハワイ④2006年6月24日

ワイキキのにぎわいのピークは、夜9時頃。海岸沿いのカラカウア通りは、レストランでの食事を終え、夜の街に繰り出す人々で溢れる。音楽家、似顔絵師、大道芸人がパフォーマンスを繰り広げる。いくつかのレストランでは、ライヴバンドが演奏を始め、その音楽は店の外に流れていく。

夜のカラカウア通り、ロイヤル・ハワイアン・センター前

最初の夜は22時頃、クヒオ通りのワイキキトレードセンターにあるナイトクラブ「ザンザバー」へ。ダンスフロアは、既に大柄な白人の女性たち、基地から来たG.I.の男性たちでいっぱい。黒人のMCがダンスフロアで踊りながらラップし、両側のお立ち台では専属の女性ダンサーが雰囲気を盛り上げている。

ワイキキ・トレード・センターにあったザンザバー

2日目の夜はハワイアン・ミュージックを楽しもうとしていたが、通りを歩いていて思わず惹きつけられたのは、店の中から流れてくる「ホテル・カリフォルニア」のギター・ソロ。私はギターに合せてメロディを口ずさんだ。退廃的な雰囲気をただよわせる夜のクヒオ通りに、この曲はぴったりに感じられた。

イーグルス『ホテル・カリフォルニア』のレコード・ジャケット

深夜、雨が落ちてきたのでABCストアへ。ワイキキの街角にはABCストアがあり、おみやげを買うよう誘う。友人用にMAUNA LOAのDry Roasted Macadamias、プルメリアの携帯ストラップ、自分用にワイキキビーチのサンセットを描いたバスタオルとハイビスカスのアロハシャツを選ぶ。

ハワイのサンセットを描いたバスタオル

最後の夜は22時頃、ハイアットの地下にあるナイトクラブ「ディープ・ブルー」へ。客席は埋まっているのに誰もダンスフロアで踊らないので、店のスタッフが誘いにきた。ブルーハワイで気分が良くなった私の身体がピップホップのリズムに導かれて激しく弾み出すと、黒人のスタッフが一緒に踊ってくれた♪

カクテル「ブルー・ハワイ」

ホテルに戻り、荷物を詰め終わっても、眠れない。私は、夜明け前のクヒオ通りをワイキキトレードセンターまで歩き、左折してカラカウア通りに出て、ロイヤルハワイアンショッピングセンターのショーウインドを眺め、モアナの白亜の建物に見とれ、ハワイの英雄デューク・カハナモクの像に別れを告げた。

夜のモアナ・サーフライダー

最終日、高さが2フロア分の水槽の中をゆったりと泳ぐ魚たちを眺めながら早めの朝食。周囲の席は、白人のおばあちゃま達がおしゃれしておしゃべりを楽しんでいる。そういえば初日の夜に行った3階の日本食レストラン「ショーグン」でも、日系のお年寄り達が楽しそうに過ごしていた。

パシフィック・ビーチ・ホテルのオーシャナリウム・レストラン

ホノルル空港で帰りの飛行機を待つ間に、1930年代にパンナムが米国人をハワイへ誘客するために制作したポスターをデザインした絵葉書を発見。そのイメージは、現在の私たちが抱く楽園のイメージにも通じていて興味深い。特にKerne Ericksonが描いた絵に惹かれたので、すべて購入し、飛行機に向かった。

カーン・エリクソンの絵葉書セット

Ericksonの絵の構図は、ボートハウスやヤシの木陰などの暗い前景があり、そのむこうに輝くばかりのワイキキビーチの光景が広がっていて、窓から外の景色を眺めるように見る者の旅情をかきたてる。観光ポスターとして申し分のない出来栄え。その絵に導かれて、1930年代のワイキキビーチを歩きたくなる。

カーン・エリクソン「ハワイ 波乗りと太陽光の国」

ワイキキは、ハワイ語で「水が湧き出る」という意味。タロイモ畑、養魚池、ココナッツ林のある湿地帯だった。その後、アジア系移民が稲作水田を作ったが、ハワイ共和国による統治が始まると、水田や養魚池は「蚊が大量に発生する非衛生な地区」とされ、土地の改良を義務づけられる。

1908年のワイキキ 稲作水田が広がっていた

現在のワイキキを造ったワイキキ環境整備プロジェクトの完成は1928年。ワイキキの一部を掘削して運河をつくり、山から流れ出る3本の川の水量を調節するとともに、そこから出た大量の土砂で湿地帯を埋め立てた。ワイキキの東西に伸びるアラワイ運河の海側に、観光客向けの土地が完成し、地価は8倍に。

1930年のワイキキ 左が1927年開業ロイヤルハワイアンホテル、右が1901年開業モアナホテル、背後にアラワイ運河、奥にマノア渓谷が見える

1925年、マトソン社がサンフランシスコ~ホノルル間に豪華客船マロロ号の定期航路を開設。1926年、ホノルル港にアロハタワーを完成。1927年、ロイヤルハワイアンホテルを開業し、ホテルの開業ラッシュが続く。米国本土に渡ったソル・ホオピイらによるスティールギターのハワイアン音楽の流行が始まる。

マトソン社がサンフランシスコ~ホノルル間に運航した豪華客船マロロ号

1929年の大恐慌で観光客数が激減すると、米国本土にむけて観光宣伝を開始。1935年には、ラジオ番組「ハワイ・コールズ」(~1975年)の放送を開始。パンナムは、サンフランシスコ~ホノルル間に飛行艇「チャイナクリッパー」の運航を開始。船では4日間かかったホノルルへの旅程が21時間半に短縮される。

サンフランシスコからホノルルの真珠湾に到着したチャイナ・クリッパー

船から降りると、長い黒髪の女性たちがレイをかけてくれ、フラを披露してくれた。A型フォードでむかう先は、ロイヤルハワイアンホテル。外壁がピンク色のスペイン風の建物は、ピンクパレスと呼ばれている。ハワイの王族達が邸宅を構えた、海に面したココナッツ林の中にあるらしい。

カーン・エリクソン「アロハ・タワー」

ホテルに荷物を置いて、ワイキキビーチを歩く。正面にダイヤモンドヘッド。背丈よりも長いボードを手に海へ入ろうとしているサーファー。カラフルなパラソルの陰から海を眺める女性。車座になって友人のうわさ話に夢中の若者。シートを敷いて身体に陽をあびる人。黒髪に赤いハイビスカスの花を挿してウクレレを弾く女性は、今夜のショーに出るのかな。

カーン・エリクソン「アロハ・ハワイ」

気がつくと、陽がかたむきかけていて、私たちの影も東へ伸びている。そろそろ帰ろうかなと、ホテルのほうをふり返ると、飛行機のプロペラ音が聞こえる。ボオーっと汽笛の音がして、沖に客船のシルエットが見える。もうすぐ本土から、たくさんのお客さまがやってくる。今夜は、どんな夜になるのだろう。

カーン・エリクソン「ワイキキ・ビーチ」

そんなことを夢想しているうちに、ノースウエストNW009便は、ホノルル国際空港を離陸し、成田まで約8時間30分の旅へ。
帰国後に調べると、Ericksonは1946年6月30日生まれ。戦後生まれの画家が、1930年代のハワイを、当時の観光ポスターを装いながら臨場感たっぷりに描き出していることに、びっくり。

飛行機から見たワイキキとダイヤモンドヘッド

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