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片岡義男『双眼鏡の彼方に』

トランクス1枚で浴室から出てきた。古い板張りの廊下を歩きながら、腕時計をどこに置いたかと思った。シャワーを浴びるまえにいた部屋に入った。
居間として使う部屋だが、いまはがらんとしている。
壁に寄せてライティング・デスクがあり、その上に空気銃が横たえてあった。

BB弾の入ったケースが、腕時計、双眼鏡とならんで、空気銃のわきに置いてあった。
むこうの壁の目の位置よりもやや低いところを、厚さ3センチの桟が走っていた。標的を置くには、うってつけだった。
午前中ずっと、桟の横幅いっぱいにクラッカーの標的を並べては、端からひとつずつ撃ち砕いていった。

砕けたクラッカーは、フロアに落ちた。壁から1メートルの幅に、敷きつめたかのようにびっしりと白くあった。
空気銃は22口径のライフルとよく似ていた。双眼鏡を持ち、部屋を出た。
寝室に入り、服を着た。
玄関のドアを閉じ、ポーチの最上段に腰を降ろし、ブーツをはいた。立ちあがり、腕の時計を見た。正午だった。

桟の横幅いっぱいにクラッカーの標的を並べては、端からひとつずつ撃ち砕いていった。

空港まで自動車で50分ほどかかる。彼女がホノルルから乗ってくるアロハ・エアラインは、午後1時28分に到着する予定だ。クリスマスまであと数日なのに、東京の真夏日をしのぐかんかん照り。友人から借りた、このステーション・ワゴンは、彼の奥さんが買い物にいくときに使うものだ。

空港まで、田舎道を45分で走った。前方に自動車が見えると、隣のシートから双眼鏡を取りあげた。ドライヴァーの姿が、丸い視界のなかで、8分の1の距離にたぐり寄せられて、見えた。エンジン・フードが放っている熱が陽炎のように作用し、視界のなかのドライヴァーは、いつもかすかにゆらめいていた。

空港の建物のロビーには、ほどよい数の人がいた。到着便の時間を確認し、コーヒーを飲みながら、朝刊を読んだ。ホノルルからのアロハ・エアラインが間もなく到着する、というアナウンスがあった。双眼鏡を首にかけ、2階にあがった。ガラス窓のまえに立つと、離着陸する飛行機をながめることが出来る。

空港の建物のロビーには、ほどよい数の人がいた。

しばらくすると、青い空の一角に、飛行機が小さく見えた。
滑走路に降りてくる定期便を双眼鏡の視界のなかに見た。
オレンジ色の花模様が見えた。
タイアが滑走路に接触して煙があがり、浮きあがって再び接触する。
737は滑走路の端までいき、方向を変えて、ゆっくりと建物の正面へ。

タラップが機首と機尾のドアにとりつけられ、乗客が降りてきはじめた。
彼女が機首のドアを出てきた。白い半袖のシャツ・ドレスを着ていた。
座席の下におさまるオーヴァー・ナイターをひとつ、持っていた。
この島を、彼女はいまはじめて体験している。一歩ずつ確認するかのように、ゆっくり歩いていた。

ぼくは下に降りた。歩いていく彼女のうしろにまわり、
「佳子(けいこ)さん」
と呼んだ。
ふりむくときの身のこなしに、おっとりした好ましさがある。
「来てたのね」
「いらっしゃいませ」
ぼくは彼女を抱き寄せた。
彼女は上半身を離し、双眼鏡をぼくの背中にまわした。そして、ぼくを抱きなおした。

滑走路に降りてくる定期便を双眼鏡の視界のなかに見た。

「近くにある町へ寄ってみよう。コーヒーでも飲もう」
ハイウェイをひた走ると、溶岩による台地の上に出た。片側に海を見ながら、西へむかった。北側からその町に入った。
道路の両側に建物が続くようになって、佳子は町なみを熱心に見ていた。
「子供の頃、この町にいたことがある」

ハワイの田舎町には、とりとめのないのんびりした様子が、かつては濃厚にあった。いまでは、ほとんど消えかけているが、ほんのすこしだけでよければ、所によってはまだ残っている。
「子供のあなたは、ここでなにをしてたの?」
「楽しく遊ぶ、ということ以外はなにも知らずに、毎日を過ごしていた」

ステーション・ワゴンをマーケットの駐車場に入れた。3ブロック歩くと、かつてはにぎやかだったあたりだ。日系の軽食堂に入った。
BLTにオレンジジュース、コーヒーを彼女は注文した。ぼくはコーヒーにドーナツだ。
彼女は双眼鏡で外を見た。
「昔のあなたのような子供が、空き地で遊んでいるわ」

BLTにオレンジジュース、コーヒーを彼女は注文した。ぼくはコーヒーにドーナツだ。

2週間まえ、ぼくは東京からこの島へ来た。出発まえ彼女に会い、滞在場所を教えておいた。1週間後、私もいくことにしました、と彼女は手紙に書き、この島に到着する日時を書き添えていた。その日が今日だ。
マーケットを見たいと佳子は言い、ぼくたちは1時間以上をそこで過ごした。

レンタカーのオフィスで自動車を借りた。リストを見て、フォードのレインジャーというピックアップ・トラックに気持ちを動かされた。支払いをおこなうと、オフィスの彼女はキーを差し出し、外の広い駐車場を指さした。
「奥に停めてあるわ。まっ赤な色」
佳子の純白のドレスに、その赤はよく似合った。

「まず、ぼくが泊まっている一軒家へいこう。そこでシャワーを浴びて気楽な服に着替えるといい」
裏通りに面して一軒家は建っていた。佳子は、その家を珍しそうに見ていた。
「もう少し改装して、ぼくみたいな仕事の人にぴったりの家にすると、友人は言っていた」
「だったら、ここに住めばいいのに」

リストを見て、フォードのレインジャーというピックアップ・トラックに気持ちを動かされた。

彼女はシャワーを浴び、着替えをした。フロアの上に腰を降ろし、テニス・シューズをはいた。隣りの部屋へ、彼女を案内した。クラッカーを桟に並べ、空気銃で右端のクラッカーを撃った。
「狙って引き金を引くだけでいいんだ。やってごらん」
空気銃を構えた佳子は、狙いをつけた。

「いちばん左」
とぼくが言った次の瞬間、そのクラッカーは飛散した。
「その隣り」
今度は彼女の言葉に続いて、クラッカーが砕けた。
「大学生のときには、エア・ライフルを趣味にしていたの」
「知らなかった」
「あなたが知らないことは、まだたくさんあるわ」
「楽しみだ」
ぼくたちは、外に出た。

海沿いの道路に出て、南へむかった。5分とかからないところに、お気にいりのガス・ステーション兼日用雑貨店があった。
1940年代のガソリン・ポンプが2基、店のまえの広場に立っていた。そのポンプから離れたところに、トラックを停めた。
「買い物をするんだ。頼んでおいたものが届いているはずだ」

1940年代のガソリン・ポンプが2基、店のまえの広場に立っていた。

建物も1940年代のものだ。
店のなかは、ほんのりと暗かった。客はいなかった。店主の姿も見えなかったが、店には人がいなくても人の気配があった。周辺に住んでいる、なじみ客たちの気配だ。
1940~50年代の雰囲気が、店のなかには存在していた。来るたびに新しい発見のある場所だ。

店主が、ふっと、店のなかに出てきた。初老の、しかし元気な日系の二世だ。
「頼まれていたレイディオ。みつけたよ」
「見せてください」
彼は店の奥から紙の箱をかかえて出てきた。箱を開いてラジオを半分ほど引っぱり出し、手をとめた。そして佳子に視線をむけ、
「きみの奥さんかね」
と、きいた。

「そうです」
と、答えてみた。
「結婚しとるとは、聞いてなかったね」
「そういう話題は、出ませんでしたから」
彼はうなずき、箱からラジオを出した。
「1954年。エマスン」
美しい出来ばえのラジオだった。
佳子は、分厚いノート・ブックを2冊に、タイコンデロガの黄色い鉛筆を1ダース、買った。

1940~50年代の雰囲気が、店のなかには存在していた。来るたびに新しい発見のある場所だ。

海沿いの道路をひきかえし、10分ちかく走った。ハイウエイからわき道に入り、スロープをのぼっていくと、マンゴーの樹に囲まれた平屋建ての家があった。
「さっきの一軒家を貸してくれているエドワードの家だ」
子供がふたり、出て来た。女性がポーチに出た。奥さん、キャロリンだ。

「トラックを手に入れたのね」
彼女のその言葉を聞いた瞬間、思い出した。キャロリンから借りたステーション・ワゴンをマーケットの駐車場に停めたまま忘れて来たことを彼女に説明した。
「あとで取ってくるよ」
「いいのよ、いつでも」
佳子に、彼女は視線をむけた。
「あの女性なの?」
「そうだよ」

「いい女性だわ。ぜひ彼女と結婚しなさい」
彼女は心理学の研究者だ。
子供たちに手を引かれるように、佳子は部屋を出ていった。
「プロポーズは、したの?」
ぼくは首を振った。
「もしOKなら、ここで式をあげる。知っているお寺で、簡素に。そのときはエドワードと一緒に証人になってほしいんだ」

スロープをのぼっていくと、マンゴーの樹に囲まれた平屋建ての家があった。

キャロリンは佳子をさがしにいき、すぐに戻ってきた。
「地下室にいるわ。子供たちは彼女になついているみたい」
地下室の中央に、佳子はすわっていた。両脇に、エドワードのふたりの息子が横すわりしていた。
「絵本を読んでいたの」
膝の上に開いている絵本は『昨日の雪だるま』。

「ふたりとも雪だるまが好きなのですって。でも、現物をまだ見たことがないの」
階段の上から、キャロリンが息子たちを呼んだ。
「子供の頃、姉と作った雪だるまを思い出す。その目は、見ることができるんだ」
「見る?」
「鉄管が2本あってね。姉はその鉄管を雪だるまの目の位置にねじこんでいった。

むこうまで出して、頭を整えてから、1本ずつ抜きとった。うしろにまわってつま先で立つと、雪だるまの目で、むこうを見ることが出来た」
「面白いわ」
夕食はここで食べるのだと、佳子に伝えた。
「コンドミニアムの部屋へいこう。そこに落ち着いてから、あの町へ再びいき、2台の車で戻ってこよう」

「絵本を読んでいたの」。膝の上に開いている絵本は『昨日の雪だるま』。

海沿いをしばらくいくと、コンドミニアムが見えた。彼女が来たら、部屋は世話させてくれ、とエドワードが言い張り、ペントハウスに部屋をとってくれた。
居間とダイニング・ルームを中心に、3つの寝室が配置してある。海側をラナイが囲み、どの寝室からもラナイに出ることが出来た。

両端の寝室を、それぞれの部屋として使うことになった。彼女の寝室へラジオを持っていった。チューニングしていくと、クラシック音楽専門局がみつかった。音量をあげてみた。
「いい音だ」
「人の体温のようなものを、音のなかに感じるわ」
「モーツアルト?」
「ピアノと管弦のための五重奏曲」

モーツアルトを聴いている彼女を残し、シャワーを浴びた。居間に出ると、佳子はラナイに立ち、双眼鏡で海を見ていた。
ラナイに出ていき、彼女の後頭部に顔をつけてみた。いい香りがした。
「なにが見える?」
「海が見えるわ。面白いのよ」
姉がかつて作った目の見える雪だるまを、ぼくは思い出した。

彼女の寝室へラジオを持っていき、チューニングしていくと、クラシック専門局がみつかった。

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