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大江健三郎、武満徹とハワイ③宇宙大の「雨の木」

大江健三郎:いかに木を殺すか(1984年)①
夕食に招かれたシカゴ大学の教員宿舎の2階にあがる階段正面壁の黄ばんだ写真から、夫妻がハワイ出身であることに話がゆき、「ハワイではOhaiというのですが、雨の木を知っていられますか?」と質問した。
「Ohaiなら知っているが、それを雨の木と呼ぶことはなかった」

「Ohiaという木が雨の木だった。なぜなら花を摘むと雨がふる慣いだから」。
歴史学者の夫人アイリーンは、深い緑の森でその花を見つけると、指で折りとらずにいられなかった。
壁の写真の、原生林と海の間の狭い浜に、トタン屋根に貯水タンクの突き出した貧しい家の構えに、歴史学者のオアフ島での暮らしぶりがおしはかれた。

彼らが家の裏から細道を辿って昇る原生林の、樹木のありようの意味。歴史学者夫妻の思い出話は、四国の森の中の谷間の村での、僕の幼・少年時をよみがえらせた。どう育ったかを聞かれるままに、敗戦前後に経験した出来事を、そこでの樹木の意味を思いつつ、ほとんど明け方まで話し続けることになった。

アイリーンから贈られた写真集に書かれたHow to kill a treeの物語。それはハワイの近代化に始まる植物の受難の歴史であり、樹木の戦いの記録。古代、ハワイの原住民は森を恐れていた。アメリカ西海岸から交易の船が来るようになると、白檀が収穫され、樹木は燃料として燃やされ、人々は森を惧れなくなった。

ヒロ街にハワイで一番高い椰子の木があった。かつては馬がつながれたが、車の導入後は交通の障害とみなされた。最初の危機には婦人クラブが抗議して木は保護された。しかし1910年、大会社の建物改築の際に木は引き抜かれた。樹木保護とそれに逆行する勢いとの闘い。樹木を守る働き手は、女たちだった。

オーヒア・レフア(撮影:崎津鮠太郎)

いかに木を殺すか②
四国の森の中の村の、樹木を守るために闘った女たちの物語。
戦争が終る年の夏のはじめに、高知と愛媛の県境で松根油採取の労働に従事していた予科練の部隊から、3名が脱走して谷間を囲む森に向った。その一人は村出身の青年だった。憲兵の指令で消防団と予科練が山狩りに入った。

3人は部隊を代表して高知に毛布や食料を受け取りに行き、そのまま脱走した。村出身の青年の案内で日々野営地を移し、森の深みへ潜行した。
村には、藩や軍の圧政に村人が犠牲となり、それに反発して代官や軍人を絞首台にかけた歴史があり、その物語は、盆に上演される村芝居の最後に演じられてきた。

そのため、村人たちには3人が捜索隊の山狩りを翻弄していることを密かに面白がる雰囲気があった。
消防団の探索活動に疑念を抱いた憲兵隊は、戦術を転換。村の人間は山狩りの資格なしとし、他町村からの男たちに斧や鋸を持たせて樹木を伐り倒し防火帯を築いた後、森に火を放ち脱走者をイブリ出す作戦だ。

村の女たちは、森全体が大災厄に見舞われつつあると感じ、村芝居を演ずる木蠟倉庫の舞台を修理し、憲兵隊に「女たちが総がかりで村芝居を上演して、他町村の男たちを慰めたい」と願い出て承諾を得る。
当日は、昏れてから大雨が降り始める。のんびり花やいだ笛太鼓、三味線の音が木蠟倉庫から響いてくる。

2時間後、最後の演目。家来が「森に隠れておる者ら、火を放つぞ」と告げ、代官が松明に火をつけると、観念した人々が樹木の陰から姿を現す。やがて半分の人々は樹木に絞首される。舞台は暗転。ガタン!と重い衝撃音、女たちの地を這う音程の斉唱、白く輝く光、代官と家来の縊死体がぶらさがった眺め。

大雨の降った村芝居の翌日、森での作業は再開できなかった。翌々日には炊き出しの特配の米も底をつき、山狩り要員はそれぞれの町村に引き上げるほかなかった。憲兵たちが松山の連隊へ引き上げた日は、敗戦の3日前。それでも予科練の若者らは8月15日の昼前まで、蝉時雨の中、森の探索行を続けていた。

『いかに木を殺すか』表紙

大江健三郎:宇宙大の「雨の木」①(1991年)
東西ドイツ統一の1990年10月3日をはさんで開催された、フランクフルトの書籍市での日本年の催しで、ドイツ語圏と日本の作家の討論を司会し、ギュンター・グラスとの公開討論をした。日本文学研究者とのシンポジウムの会場では、中年と初老の女性の一組に気がついた。

コーヒーブレイクに、アガーテを従えて近づいてきた高安の未亡人ペニーは「明日の3時に近くのホテルで、息子ザッカリー・K・高安の新アルバムの発表会を開催するので来てください」と要請した。
会場には、レコードやヴィデオ、リーフレットが展示され、中央には、水平な枝の重なる大樹の下、籐椅子にかけた40代の高安の写真。

説明もないまま、前のテーブルにつく。
「高安からどのような具体的な影響を受けたか」との質問にコメントをすると、アガーテは長大な説明を加えた。
「高安の小説『宇宙のへりの鷲』の翻訳はあるのか」との質問には、未亡人が「息子の歌による翻訳で、作家・高安の偉大さは感じとれるのでは」と答えた。

フランクフルトの書籍市(1990年)

宇宙大の「雨の木」②
翌日の午後、僕とペニーはフランクフルト近郊のドライヴに出かけた。
「フランクフルトは新しい建築ラッシュだけれど、街なかから車で30分も走るだけで、こぢんまりした森がきれいだし、良く耕された畑や牧場も見られるでしょう? そこが日本とちがうところ。高安は日本の環境破壊を憂いていました」

「この運転手は学生アルバイトだけれど、テレヴィで見たあなたのフイルムに、息子さんの音楽を聴くシーンがあったといっている。その音楽が高安の息子ザッカリーの新しいレコードに似ていると。ザッカリーの音楽も変わった。最初から示していた本質に向けて深まり鎮まった。その本質は、高安に由来するマルカム・ラウリーの『泉への森の道』のなかの祈りの言葉でした」

≪親愛なる神よ、心からお祈りいたします、私が作品を秩序づけられるよう、お助けください、それは醜く、混沌としたものではありますが、心を沸き立たせる「言葉」を響かせ、人間への希望を伝えるはずです。それは平衡のとれた、重おもしい、優しさと共感とユーモアにみちた作品でなければなりません……≫
「ザッカリーはこの言葉をキーボードの上枠に貼りつけて、演奏のたびに眺めているうち、この祈りが音楽として聞こえてきたと言っているわ」

ペニーはテープを車の再生装置に掛けようとしたが、僕はその音楽を聴くことを延期した。高安が遺した「宇宙のへりの鷲」のイメージと年月をかけてそれを表現したザッカリーの音楽。障害のある僕の息子の音楽とこれからなしとげるはずの自分の仕事が、先の二者に呼応するなら、4人はいつかどこかで、「宇宙のへりの鷲」の羽ばたきの音を聴いた記憶を持つのではないか?

フランクフルト

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