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長距離最強国エチオピアの「ランニング王国を生きる」について

今年の秋はCOVID-19の影響で史上初のWMMが6つとも集中するというシーズンになっている。そのうち、東京マラソンは延期という名の中止となったが、今週末のベルリンマラソンを皮切りに5つのWMMのレースと、アムステルダム、ロッテルダム、そして冬にはバレンシア、最後の福岡国際と大きいロードレースが続いていく。

それらのレースの中で注目している2人のエチオピア人選手がいる。1人はケネニサ・ベケレともう1人はジェマール・イェマーである。

ベケレは9/26のベルリンに出場するが、その41日後のニューヨークシティマラソンにも出場する。特にニューヨークシティは彼自身初出場であり、かつて世界クロカンで無双だった彼がアップダウンのあるコースが得意なことは明らかである。

とはいえ、ベルリンでは世界記録を狙う準備ができていると、彼を現在指導するハジ・アディロコーチは胸を張る。

2017年以降、ナイキのヴェイパーフライ4%から始まった厚底カーボンシューズによるシューズ革命の最も革新的なところは、より速く長く走れるようになっただけでなく、下腿三頭筋の筋活動量を減らすといった効果に現れているように、ふくらはぎの疲労感を軽減することにある。そして、ランニングにおける疲労感は、このふくらはぎの疲労感と密接に関係しているようにも感じる。だから、マラソンの連戦が効くようになったのは、川内優輝のような心身ともにタフなランナーだけのものでなくなったのかもしれない。

ベケレは昨年10月のロンドンマラソンを直前で出場断念し、キプチョゲとの対決とはならなかったが、今回が2年ぶりのマラソンとなる。ベルリンでどういう走りを見せて、その後ニューヨークシティの走りにも注目が集まる。

もう1人のジェマール・イェマーは、5000 / 10000 / マラソンといったベケレほどエチオピア記録を持っているわけではないが、ハーフマラソンのエチオピア記録を持っている選手である。

現在25歳のイェマーは58:33のエチオピア記録を持っているが、この3年間で世界トップレベルのハーフを10戦して2018年の世界ハーフ(4位)を除いて全て3位以内に入る安定感を持っている。

彼は元々2020年4月に予定されていたボストンマラソンでマラソンデビューを果たす予定だったが、COVID-19の影響で延期。さらに、秋に延期されたボストンも中止となってしまい、12月のバレンシアにスライドしたが、そこで途中棄権に終わった。

そして、彼がこの10月にやっとボストンの舞台を走るのだが、ハーフで高い実力を誇っているだけにその結果に注目している。

前置きが長くなってしまったが、ベケレやイェマーといったエチオピアの2人も登場する、著者マイケル・クローリーの「ランニング王国を生きる」(原題:Out of Thin Air: Running Wisdom and Magic from Above the Clouds in Ethiopia)を読了した。

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この1冊は今年の東京五輪の直後に発刊された新刊であるが、原著も2020年に発刊されたばかり。著者は今もマラソンでサブ2:20ほどのポテンシャルを持っている人類学者の英国人マイケル・クローリー。

この1冊は彼がエチオピアでの1年に及ぶフィールドワークを行った様子が事細かく記述されている。特に彼自身もサブエリートのランナーであることから、ランニングの練習におけるエチオピア人選手との会話の詳細やその場の描写のページが多く、大半が活字であるのにもかかわらず(写真があまりないのにもかかわらず)まるでそこにいるかのような臨場感を持ってエチオピアでの練習の雰囲気をイメージしやすい1冊である。

そもそも、エチオピアに関するランニング本はレアである。

日本のマラソンに出場したエチオピア人選手の通訳の方が、ほぼ毎回葉加瀬太郎さん似の髪型の名物通訳者であることからも、そもそも英語が話せないエチオピアのランナーとコミュニケーションが取れる人自体が世界中で見てもレアなのである。

その理由はアフリカで唯一独自の文明を築き、独自の文字や言語を持っていること。隣国のケニアとは違って英語が公用語ではなく、まずアムハラ語を習得しないことには、英語を話せるエチオピア人としか“深い”コミュニケーションが取りにくい。

そのため、エチオピアに関するランニングの書籍はレアであり、Out of Thin Air: Running Wisdom and Magic from Above the Clouds in Ethiopiaが発刊された時は業界内で話題になった(日本では当時話題にはなってなかったが)

私がこの1冊で印象的だったのが、エチオピアの選手は「誰と一緒に練習するか」と同じように「どこで練習するか」を重視していることだった。これを読んでいるランナーのあなたは、「誰と一緒に練習するか」と「どんな練習をするか」をまず考えるのではないだろうか。

しかし、彼らはどこに行って誰と練習するか、それによって与えられたメニューに対してどういう気持ちで走るかといったことが変化している。また、イージーランの日は森の中で「いかに“遅く”走れるか」ということにフォーカスしている。速く走るためにはいかに遅く走れるか、ということが重要になってくる(言い換えれば、そもそも速く走れないようなところをどのように走るか、ということである)

また、ランニングをしながらの「自然との調和」という視点は大変興味深い。彼らはケニアの選手と同じく「人生を変えるため」にランニングに取り組んでいる選手がほぼ100%である。1つ1つの練習がそれぞれファンランニングではないのだが、森の中といった自然の中での練習では自然との調和を大切にし「自然から大きなエネルギーを得ることができる」と心の奥底から信じている。

それはある意味では山奥に篭って長期の修行を行う修行僧のような境地ともいえるだろう。それが彼らの“デフォルト”でもある。そして、大半のエチオピアの選手がやっている練習現場には科学のアプローチはほぼなく、主にメンタルにフォーカスしている場面が多いところが実に興味深い。

事実として科学とは無縁のケニアやエチオピアの選手たちが今も世界のトップクラスを席巻しているという事実を考えると、トライアスロンや自転車のロードレースとは違って、陸上の長距離走がいかにシンプルな競技であるか、ということがよくわかる。

彼らはよく練習をして、栄養のあるものを食べて、よく寝るだけ。というシンプルな哲学を持っていて、練習や試合の分析はおもにコーチが行うものであり選手は余計なことを考えない。

かつてのベケレがどのような選手だったか、かつてのベケレを指導した指導者がどういう哲学を持っているかをこの1冊では少しだけ知ることができる。

科学を取り入れたアプローチも大切ではあるが、やはり「人生をかけて走っているかどうか」というメンタルの部分が最も重要であり、それが彼らの練習へのモチベーションの大部分を占めている。

エチオピアの選手もケニアの選手と同じように自己肯定感を持って物事に取り組んでいる。また、神といった何かへの強い信仰心があるかどうか、この2点がこの1冊を読み終えた後の最も重要な点であると感じた。

トレーニングの内容でいうと、基本的にはエチオピアの選手はアスファルトは走らない。この本の内容としてはアスファルトの上で練習するのは週1回。月に1回や数ヶ月に1回という選手もいるぐらい、アスファルトの上は「石の上を走ること」というぐらいにエチオピアでは避けられている(舗装路がそもそも少なく歩道がほぼないアスファルトの幹線道路で走ること自体が危ないのもあるが)

特にジュニア選手はアスファルトの上を走ることを明らかに避けているそうだ。アスファルトの上をほとんど走らないことでどういった変化もたらされるのか、こういった日本との違いについて考察してみると本書を読み解くうえでまた面白みが増すのかもしれない。

左:アセファ / 中央:ジェマール / 右:ツェダ(3人ともMoyo Sportsの契約選手)

「ランニング王国を生きる」に出てくる選手はおもにMoyo Sportsの男子選手であるが、そのうちの1人のアセファは2019年のびわ湖毎日マラソン2位(2:07:56 )同年の大阪マラソン優勝(2:07:47 )の戦績を持つ。

本書で紹介されるエチオピア最高レベルのクロカン大会“ジャン・メダ”クロスカントリー

標高差が少ないトレランともいえる森の中でのイージーランと不整地での坂ダッシュ

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