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縁という世界

僕の母親は現実的な人。あまり迷信的なことも言わない人だ。
でも小さい頃から一つだけ、結婚については、母がよくこぼす口癖があった。「結婚は縁だ」
誰しも結婚相手は決まっていて、その人にいつ出会うかだ。そういう縁がある。そんなことをよく言っていた。何でそんなことをよく言っていたのか・・・それはおそらく、自分自身の結婚を考えた時、そういうところに落ち着いたんだと思う。
僕の両親は見合い結婚。母としては恋愛結婚で、自分の決めた人と結婚したかった。その気持ちを整理するため「縁」だったというところに落ち着かせていたのかも知れないと、大人になってから思った。
でも、小さい頃から「結婚は縁だ」という感覚が僕を含め、僕の姉、妹にも刷り込まれていたかもしれない。
結局三人とも三十代半ばで結婚し、それぞれ子供がいる。
母親の口癖の威力は大きい。小さい頃から何度も浴びせられると、無意識に刷り込まれている。自分の考え方、世界に対する見方を紐解くと、最後は母や父に辿り着くことが多いはずだ。

結婚は縁だという口癖、これはにはまず結婚はするという前提があった。そして、必ず巡り合うという前提があった
母は子供たちに最後は必ず巡り合うということを伝えていたと言っても良い。だから、僕は結婚に対して焦ったりしたことが無かった。前提がするだったから。
最近は未婚化が進んでいると言われ僕の年代でも未婚の人が結構いる。それぞれ、そのライフスタイルを楽しんでいるようで、時々未婚の人が羨ましく思えるときもある。
今の時代は結婚って当たり前にするものでは無く、個々の選択、人生観に基づくものになっている。
でも、やっぱり結婚して良かったと思うし、母の口癖には感謝している。

もしかして、母は自分の結婚を自分に納得させるため「縁」という言葉を使ったかもしれない。あまりロマンス的な意味合いは含まれていなかった。
でも、子供の頃の僕はそれをロマンス的に受け止め、いつか出会う、運命の人のような感覚を持った。言葉を発した側、受けた側でそのニュアンスは異なっていたが、共通の前提は結婚はするということ。

よく思考は現実化するというが、無意識の思考が現実化しているというのが、本当のところかもしれない。疑うこともなく、持っている当たり前の思考。それは例えるなら、今立っている地面が突然抜けてしまうなんて、思っても無い、考えたこともないくらいに当たり前に思っていること。そういうことが、現実化して。目の前の世界に広がってる。
当たり前過ぎて疑うことがないことは常に現実化している。
その結果が僕の結婚へ至る道、縁だったと今思う。

そう考えると「縁」という言葉は実に奥深く、力強い。
決まっているという前提が未来を引き寄せるのだ。
見えない糸で繋がれていて、必ず出会う。
出会ったときにその縁に気付く。
その時にならないと気付けない。

理屈では説明できない「縁」という世界。

僕もいつか、子供たちにその世界を伝えるときが来るかもしれない。
そのときは、僕はロマンス的な要素も含みながら、この不思議な世界を伝えていきたい。