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アマテラスと反転した世界

【三種の神器】
天皇家に代々伝わる三つの神器。この神器を持つことが正統な天皇の証と言われるほど、重要な宝物。
それは元々は神代の時代、神話の世界に起源があって、そこから語り継がれ、継承しているとされる。
そもそも、神話の神様からの系譜が天皇へ続いていること自体いったいどこまでが史実か神話なのか定かではないが、遠い昔から受け継がれてきた神器。

この三種の神器、一つは剣。天叢雲の剣といわれ、スサノオがヤマタノオロチを退治した際、オロチの胴体から出てきた剣。
出雲神話に出てくる。

もう一つは鏡。正式には八咫鏡。アマテラスが岩戸隠れをし世界が闇に包まれた。そのアマテラスを岩戸からおびき寄せるために使ったといわれる鏡。
天岩戸開き神話に出てくる。

最後のひとつは勾玉。正式には八尺瓊勾玉。これもアマテラスの岩戸隠れの際、使ったとされる。
岩戸から出てきたアマテラスが岩戸に戻らぬよう、結界を張ったときに用いた。天岩戸開き神話に出てくる。

三つの神器のうち二つが出てくる天岩戸開き神話。

天岩戸開き神話の舞台がどこであったのか、全国様々な場所にこの言い伝えがあるようで諸説あるという見解が一般的だ。
一方、ヤマタノオロチ退治の場所は、ほぼほぼ我が出雲地方という解釈で落ち着いている。

あくまで、神話の舞台という設定なのでもちろん史実かどうかという話ではない。

さて、この二つの神話。

アマテラスが中心で書かれた話、スサノオが中心で書かれた話と二つに分けられる。
姉・アマテラスと弟・スサノオという関係の神様。

天岩戸開きは元々、弟・スサノオの振る舞いに嫌気がさして岩戸に引き籠ってしまったところから始まる。ある意味兄弟喧嘩が発端・・・。

アマテラスが岩戸に籠り、闇の世界になったところから、光を取り戻そうと八百万の神々が結託していろいろな策を立てる。
神様が集まって宴会をしたり、踊ったり、いろいろな策を練り、最終的にアマテラスが岩戸から出てきて、世界に光が戻った。

三種の神器のうち二つ、鏡と勾玉はこの天岩戸開きから出てきた神器。
そして剣はヤマタノオロチ退治(スサノオ)からは出てきた神器。

この二対一の関係からイデア的神話解釈、そして一神教と多神教にまつわる話に繋げてみたい。

まず、天岩戸開きで使われた鏡と勾玉。
八咫鏡は伊勢神宮に祀ってあるとされ、神道の象徴的存在。
よくカガミの真ん中の「ガ」、「我」を取ると「カミ」・・・「神」となるといわれ、神様の前では「我」を消すのだ、などと言われる。
鏡はまさに自分を映し出す存在。神様の前ではまっさらな自分をさらけ出す、そんな意味もあるのかもしれない。

そして、鏡に映る姿は見られた世界。鏡像の世界。
まずは、ここが重要なポイントだ。

神話によると、岩戸に隠れたアマテラスが自分より素敵な神様がいるといわれ、鏡に映った自分をそれと勘違いし、岩戸から出てきたとのこと。

このことはつまり、反転した世界が始まったことを意味しているのではないか?なんと神様の勘違いから始まっている。

アマテラスは自分自身が「光」そのものであるのに、鏡に映った「光」を自分だと思った。これは主体と客体の反転と考えても面白いのではないか?

主体が鏡の中に取り込まれ、客体化してしまった。

「光」が主体で私だったのに「光」を客体として対象化してしまった。

そんな世界が始まったことを表しているのではないか?

そして、それがいま私たちが生きてる人間の世界。
何とそこがすべてが反転した人間の世界。

突然私たちの世界が反転していると言われても、普通はそんな感覚は持たないであろう。
しかし、『視点』を変え、固定観念を外していくと、反転した世界という解釈も十分成り立つ。

ここに天岩戸開きから考える、ちょっと大胆な、仮説を立ててみよう。
こんなことを言っている神話学者などまずいないだろう。
天岩戸開きが反転した世界の始まりだなんて。

一先ず、反転しているという理由を上げよう。

まず、私たちの知覚の世界、視野空間。
ここは確かに見る私からすると、世界と反転している。こんなことは普段は考えないようなことだから、敢えて自分と見えている世界を相対的に捉えてみることが必要だ。

やってみれば気付くが、顔を右に振れば、世界は左に動く。その場でくるくる回ると、世界はその反対方向に回る。これは見えている世界をそのまま見れば確かだと言える。

また色彩の認知にしても、例えばある物の色が「緑」だったとする。その緑は実は緑以外のすべての色彩を吸収し「緑」以外を跳ね返しているそうだ。
その反射を私たち人間は緑と認識する。実際は「緑」と認識しているその緑の物は緑以外のすべての色の波長を持ち(吸収し)、緑だけ跳ね返している。正確にいうと緑の物は緑の色の波長は保持していない。その代わり緑以外の全ての色の波長を持っている。それなのに「緑」の物と言われる。
これも反転の一つとして考えても良いだろう。

見えるから在ると考える。在るから見えるとは考えない。
常に外に光がある。そして世界の側から私に向かって光が空間が広がってくる。
そんな意識空間の世界が始まった。
そんなことを、言っているのではないか?

そして勾玉。アマテラスが籠っていた岩戸に戻ることが無いよう、この勾玉で結界を張った。
勾玉は不思議な形をしている。何か半分が欠けてしまったかのような形。
何が欠けたのか?玉は霊(たま)、魂とも解釈できる。
玉も、魂もこの反転世界に封じ込めてしまった。そのことが半分しかその形を成していないことで表されているのではないか?

つまり、見えたものを客体としてみるということは、世界との分離を生み出し、アマテラスが岩戸を開いてからの世界は反転の世界、分離の世界の始まりだったのではないかということだ。

実はこのことが一神教と多神教との関係とも繋がってくるし、天皇家の皇祖が「アマテラス」であることとも大いに関係してくる。

しかし、反転した世界であったからこそ、私たちは物質的な成長や高度な文明を発展させることができた。
そして、そこにはユダヤ教的な一神という観念は欠かせなかった。
ここのところは、また次回の投稿に詳しく書くとして、今回は天岩戸開きから反転の世界が始まったという、私の勝手なイデア的解釈で終わりたい。