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自撮りの世界は鏡の世界

スマホを持つまでは、自分を写真で撮ったり、動画で撮ったりするのは、他者がするもの、してくれるものだった。
写真、動画を撮る側は自分が見ている視野空間を、レンズで切り取っていく。自分が見ている空間を撮ってきた。
しかし、スマホの登場、いつでもどこでも撮影ができるようになった。そして、自分が見たものだけではなく、自分自身を撮ることも増えた。自分の姿、自分がみている景色を紹介する姿、動画の時代はそういう姿を撮ることが一般的になった。
スマホにはインカメラが付いていて、外側も内側も簡単に切り替えて撮ることが出来る。

自分が映っている映像を見るのは、何だか恥ずかしい。
自分の顔、表情、普段は見えない姿をまじまじと見ることに慣れていない。
僕は音楽をやっているので、自分が取った声を録って、自分で聞くことは慣れている。歌の上達のためには、録って聞く、録って聞くの繰り返しが必要。声は聞きなれている。

この「顔」と「声」の違い。

ここには歴然とした違いがある。
自分の声が発せられて、空間に広がり、それを自分自身も聞くのだけれど、その音は他者が聞く音と大きな違いはない。もちろん、自分の声は骨伝導を通した音が大きくなるので、他者が聞いている音と多少の違いは生じる。でもそう大きな違いではない。音の波が鼓膜を振動させて、音として捉えている。その感知の仕方は自己と他者間でそう大きな違いは無い。

一方、動画は映像はどうか?
ここでは自分を映すという条件で話を進める。
自分を映された動画は実は現実的には、決して自分自身では見ることが出来ない映像だ。そのカメラの場所に行って、カメラと同じ方向を見たら自分は、自分の姿は見れないのだから。
そもそも、自分の「顔」というやつは、自分自身では決して直接は見ることが出来ない。普段の生活でも鏡を見ないと見れないものだ。
つまり、自分が見ている方向の反対側に行かないと見れない。
だから常に反転している。他者から見られた像としてでなければ、認識が出来ないのだ。
そう考えると、不思議な世界だ。自分で自分の顔、正面の姿を撮って、それを自分で見るという世界は。こういった世界は今ネットに溢れている。
ここ最近よく使われるようになったzoomの画面も同じような構図になっている。たくさんの他者の顔の並びに自分の「顔」も並んでいる。現実の世界では、他者の顔はzoomで見えると同じ顔で見えているが、自分の顔だけはいつも見えていない。
自分の顔を見るには鏡を使うしかない
つまり、自分の顔を自分が見ている世界は鏡の中の世界なのだ。
見られたところに浮かび上がらせる世界。そして、それを各自がネット内で共有している。
それを意識しているわけではないと思うけど「Facebook」は直訳すると「顔」の「本」。そこにはたくさんの顔が存在している。この中の自分の顔も本当は自己側からは直接は見えない顔。他者から見た顔。
実は自分の顔だけは他者の顔とは見る方法が違うのだ。反転しているから。それがFacebookという本の中で一様に存在している。

現代はそのような世界が生まれてきている。
ここでよく考えてみたい。
ネットを使っていると知らず知らずのうちに鏡の世界の住人になっているかも知れないと。
そういったところが、SNSに感じる微かな息苦しさ、使う上での難しさなのかなと思う。
そして、その中で承認欲求という自我が顔を出す。気が付けば「数字」を追っかける。自分の顔についた数字に一喜一憂する。そんな世界だ。

それ自体は使い方によっては、とても有効的だし、鏡の世界と分かっていて飛び込む分には、面白い。そこから新たな出逢いや、気づきを得ることが出来る。
でも、鏡のことを、きちんと心得ておかなければ、自分を見失う危険性がある。本当の自分が分からなくて、自分探しに多くの時間を費やしてしまう。

自撮りの先に映っているのは鏡の世界のわたし。

では、本当のわたしはどこにいる?
そんなことをひとりひとりが考えなければならない時代に来ている。