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島根の仕事

Uターンして直ぐについた仕事は介護職。

どうしてこれを選んだかというと、実は曖昧。
その当時、母方の祖父が僕の仕事を心配して、新聞で見つけた介護の資格を取れる講座を勧めてきた。この講座を受けると斡旋もしてくれる。当時リーマンショック後の不景気。こういう時期は雇用は福祉に流れる。
僕もその流れに乗り、介護職へ。当時35歳。未婚。

とりあえず、何か仕事をしなければ。
世の中に求められる仕事をしよう。
そういう気持ちが働いていた。

1か月半の研修後、老人ホームへの就職が決まった。
福祉施設は法人によって質にばらつきがある。
僕が斡旋された施設は比較的優良な法人だった。
職員の質も高い、教育制度もしっかりしている。

そこで新しい仕事を始めた。
介護職は基本、お年寄りの生活のお世話。
お年寄りに寄り添うことが大事。
ただただお話をしたり、一緒に過ごすことも仕事の一つ。
東京では何をするにも数字で評価された。数字で存在を示さないと、その会社にいられない。仕事上では自分が動かしている数字の意識がずっとあった。
それはボイストレーナー、IT企業、コールセンター、ジムインストラクターどの仕事にもついてきた結果、数字。会員数、売り上げを意識しないことは無かった。

この感覚が染みついていた僕は、ただ「居る」ことがお金になることに強烈な違和感を覚えた。もちろんただ居るだけではないけど、意味を持って一緒に居るのだけれど(福祉サービスだから)、それにより、会員が減る、評価が下がる、売り上げが下がる、給料の査定をされる等の影響はほぼ無い。
ニコニコ笑顔でお年寄りさんと良い時間を過ごしていると、給料がもらえる。
「信じられない」それが第一印象。
東京では、苦労してお金を稼いだ。1人の会員さん獲得のために、広告を出して、営業して、サービスを受けてくれてやっと、手にするお金。
それが、ここでは何だか自動的に入ってくる感じが、当時の僕にはした。
これはあくまで当時の僕の率直な感想。もちろん介護職には別の大変さ、むずかしさがある。
そうして介護の仕事を続けていった。

日を重ねることに何かが僕の中で満たされてないことに気づく。

こういった環境で働いている職員さんとやっぱり話が合わないのだ。
ある意味、閉鎖された世界の中で繰り返される日常にあまり関心が持てなくなっていった。
それぞれ職員さんは利用者さんのこと、同僚、上司のこと、話すことがいっぱいあるみたい。飲み会となれば、それぞれがその話で盛り上がる。
そんな中に僕は一向に入っていけない。僕の感情は動いていないのだ。
おそらく、感情が揺れなかったのだろう。やることをやっているだけだった。
なんだか、自分を機械のようだと思った。

このまま、機械のように働く日々が続くのか?
そう思うといてもいられなくなる。

しかし、この職場で僕は運命の出会いを果たす。
今の奥さんと出会った。
当時奥さんは既にベテラン。副主任という立場だった。
当時の管理職からは彼女を見本に習うといいと言われるほど信頼を得ていた。
そして、僕らは付き合いはじめ、翌年には結婚する。

ここから、プライベートは何も言うことは無いが、仕事は小さな問題を抱えたまま日々を過ごすことになる。
付き合い始めてしばらくして、僕は別の介護施設に移り、一緒な職場で働くことは無かった。
変わった先の職場でも同じ悩みにぶつかる。仕事が合わない。でも、結婚したばかりで辞めるなんて・・・。
そういう思いを抱えながら介護職を5年間やった。介護職の5年はひとつの区切りで5年の実務経験があればケアマネージャーという資格が取れる。そうなると現場を離れマネージメントに回る。そこまでいけば何か変わるかも知れない。
何とか、5年頑張った。その間に起業セミナーや地域プロデューサー養成講座など受け、何とか新たな道を模索した。
そして、5年の間に子供も二人生まれた。父親になった。プライベートでの役割もどんどん増える。
そんなこんなで、自分の仕事を考えるというのは後回し。
とりあえず、目の前の生活を日々こなした。
福祉の仕事は、老人介護じゃなかったら、もっとやる気が出るのではないかと思い、障がい者施設の支援員、相談員という仕事に変わってみた。

・・・でも結果は同じ・・・

何が違うのか?僕の求めているものと何が違うのか?
僕は何を求めているのか?

そこで、東京時代との比較が出てきた。
当時はこんな満たされない気持ちになることは無かった。
厳しさで自信を失うことはあったが、周りに目指す人がいて、刺激をくれる人がいて、やる気が下がることは無かった。
自分の力不足に落ち込むけど、どうしたら力を付けて進めるのか考え努力するのは面白かった。

ここか!
成長を感じられる、場所が欲しい。仕事が欲しい。やはり評価を数値化されることも必要。
そう思って福祉の業界を去った。合計7年間。よく頑張ったと思う。
1日8時間、じっと耐えて職場で過ごした7年間。
そして、自分の仕事に本腰を入れ始めた。
もうその時すでに43歳。別の業種への転職は難しい。

独立起業。もうその道しか残っていない。
逃げる道など無い。

そして始めた民泊事業。それまでやってきた音楽業にも力を入れた。

起業とは自分の看板を立てて、自分ブランドで生きていくということだ。
そこで、ブログ、SNSを始めた。それまでもやっていたが、それは日記のようなもの。ブランディングのための発信ではない。

「すさのわ」として何が出来るか、私は何者なのか問い続けた。まだまだ、この問いに限りは無いが、こうして文面化されたことは紛れもない事実。
自分が生きた証だ。

何かを求めて、住む場所、働く場所を変えてきたこれまでの人生。
何を求めていたのか?場所を変えたからこそ、浮き彫りになったことがある。

東京から島根の仕事へ。
これは大きな大きな変化だった。
大きなカルチャーショックを受けた。
田舎から都会へ出た時も感じるが、逆もある。
大きく環境が変わって、その都度感じた違和感。
違和感、これが大事。本当に大事。
ここについて考え、考察をすることで、本質は見えてくる。

都会と田舎、東京と島根どちらが良いとかいう話ではない。
カルチャーの違う社会基盤の違う2拠点にいたから感じられた、それぞれの社会構造。
その間に埋まっている価値や、やり方に気づけるのは僕しかいないかも知れない。

そんな強気で生きていってもいいと思う。