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古代史と温泉の旅 〜徳島・香川<前編>〜

四国の香川・徳島へ行ってきました〜!
徳島県にある「かずら橋」は小学生の時写真で見てから、一度は行きたいところでした。そして最近にわかに騒がれてる「邪馬台国徳島説」。
そのへんの考察(?)も兼ねて、秘境・祖谷温泉まで出かけることにしました。
お楽しみに!

朝、眠い目をこすりながら高松空港から国道193号線を南下し、山道を30分。
トロトロツルツルの「さぬき温泉」で気持ちよく目を覚まし、
さらに30分南下して徳島県側にわたると、吉野川沿いの町「美馬(みま)」に着きました。
その名から「邪馬台」と関連があるのではという話も聞きますが、その形跡は見当たりません。

このあたりは、台風が来るたびに洪水を繰り返すため、稲作が難しい土地だったそうで、江戸時代になってからは、氾濫によって育まれた肥沃な土壌を活かし、台風が襲来する前に収穫できる「」(タデ科の一年草)の生産がさかんに行われるようになったようです。そのため「うだつ」の上がった藍染の呉服問屋が軒を連ね、その町並みが今も残っています。
吉野川沿いでも古代はもっと平野が狭かったから、稲作は大変だったのでしょうね。

美馬市景観保存地区

美馬を後に、剣山を目指します。
ところが四国の道の狭さは覚悟していたものの、国道とは名ばかりで想像以上の厳しさでした。
なにしろクルマ一台しか通れない峠道をえんえんと70キロ。いつ対向車と出くわして正面衝突してもおかしくなく、よそ見してたら谷底へ転落してしまう。
ついに同行のSくんは車酔いでダウンしてしまいました。
山間の民家も、ものすごく急傾斜に立っているなと思ったら、2018年に国内最大級の急斜面に立つ村として世界農業遺産に認定までされた、そんな土地です。

祖谷の山々


実はこのあたりは「物部」「忌部」「平家」の隠れ里であったことがわかっています。とりわけ「忌部氏」と「物部氏」は祭祀・軍事を司り、古代ヤマト政権誕生において多大な貢献をしていました。

物部神道の一部は、今も天皇家祭祀にも受け継いでいるといわれ、6世紀、蘇我氏との戦いに敗れるまで神話〜歴史の表舞台の重要人物でした。その残党が日本各地に散り、物部川下流に住み着いたようです。

また忌部氏は5世紀頃から、日本各地に農業・養蚕・麻・土木技術を伝えていたことが、最近の研究でわかってきました。
やはり天皇家の祭祀にも関与し、今も阿波忌部氏は、今上天皇の大嘗祭の際、神座に奉られる「麁服(あらたえ)」と呼ぶ麻の反物(麻織物)を調進する役目を担ったそうです。
天武天皇の時代から徐々に序列を下げ、祭祀を司るのが忌部氏から中臣氏(藤原氏)へ入れ替わったようです。

驚くことに、天皇家とこのような山間の集落との間には、深い関係があったようですね。
実際、剣山へ向かう途中には「天磐戸神社」や「天日神社」「岩戸温泉」など日本神話にまつわる神社があり、また、土佐国物部村では民間信仰の一環として「イザナギ流」と呼ばれる流儀が存在していました。
もしかしたら、後醍醐天皇が隠岐島へ流された後、朝廷のならわしを守るために島に伝統芸能を残したように、敗れた側の氏族も自らの祀りを絶やさないように、山間地に逃れて相伝を行っていたのかもしれません。

二重かずら橋で

午後3時半、ようやく祖谷渓・二重かずら橋に到着。
かずら橋の由来には諸説あり、平家の落人が追手から逃れるために切り落とせるように作ったとする説や、四国を巡行中の弘法大師が困っている村人の為に作ったという説などが伝えられています。
ただし安全のため、3年に一度架け替えられているとのこと。
とはいえ、足を踏み外すと確実に股下まで落下します。
靴も脱げ落ちるかもしれない。ポケットの中のスマホが落ちるかもしれない。
山深い緑の中、ウグイスの歌声と渓流の音に囲まれ、非日常感たっぷりのスリルが味わえました。

祖谷温泉

午後5時、旅の目的地・日本3大秘境の祖谷温泉に着きました。
温泉宿はかずら橋を中心に数軒点在しており、深い谷をケーブルカーで降り5分。渓流沿いの露天風呂にたどり着きます。(2箇所ある)
ややぬるめの湯と厚いおもてなし。
苦労してやってきた甲斐がありました!同行のSくんもすっかり元気に。
私にとっての四国一の温泉はやっぱりここでした!

<後編へ続く>


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