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古代ヤマト誕生〜ニギハヤヒは誰を殺したか?【4】そして纏向に集まった

【4】そして纏向に集まった


西谷遺跡副葬品(出雲)
楯築遺跡副葬品(吉備)
ホケノ山古墳副葬品(奈良)

さて2世紀末に出雲・吉備が奈良盆地の纏向に拠点を構えたと思われるわけですが、いきなり話は30〜40年後に飛びます。
3世紀前半の纏向遺跡の古墳に「ホケノ山古墳」というのがあります。 ヤマト政権初期の前方後円墳で、副葬品を見ると出雲・吉備王権の副葬品とひとつ大きく異なっている点が あります。
それはなんでしょう?

見比べると一目瞭然ですね。
ホケノ山には銅鏡(画文帯神獣鏡)が加わっていました。大和地方の初期前方後円墳で初めて鏡が出たのです。その後も銅鏡は、古墳の副葬品に一般化していきます。
出雲・吉備になかったのに、なぜ大和にきたら鏡が加わったのでしょうか?

それまでの弥生時代の大和では、用いてた銅器は銅鐸中心であり、墓に鏡を副葬させる風習などありませんでした。
先述した唐古鍵遺跡(奈良)からの出土遺物も、土器、農工具、石器、勾玉のほか、骨角器などの祭祀遺物、銅鐸の鋳型などで銅鏡はありません。
纏向で最も古い石塚古墳からは、吉備の楯築遺跡にある御神体「弧帯石」と同じ文様の祭器が出ています。 これは吉備勢力が纏向へやってきた有力な証拠となりますが、鏡はやはり出ていません。 石塚古墳とほぼ同年代の初期前方後円墳(矢塚古墳・勝山古墳など)からも鏡は出ません。 出始めたのは、このホケノ山古墳から。
......とすればこの風習はどこから来たのか?


この頃、日本列島で銅鏡を副葬していた地域は、九州。
特に北部九州では中国(後漢)の影響を受け銅鏡を神宝とし、祭器として使われていました。同時に同盟国の証として各国に配布するなど、政治的な意味でも鏡は重要なアイテムでした。
ということは、ホケノ山古墳の被葬者は九州から来た王だったのでしょうか?

答えは否です。
なぜならホケノ山古墳も先ほど話したように、出雲と吉備の古墳造りを踏襲し、木槨は楯築遺跡(吉備)タイプに似ており、いきなり九州の墓がこんなふうに登場したとは言えません。
つまりこれは出雲・吉備の特徴に、九州の祭器が加わったと解釈できます。
ここで初めて古墳の副葬品に、剣・勾玉・鏡が出揃ったわけです。
ということはこの古墳を見るにつけ、九州系の王が大和に来て、出雲・吉備と融合し、共に大和の地に並び立ったその証ではないでしょうか?

もちろんこの痕跡だけでは断定できません。が、「九州の王が発展しつつある大和へやって来た」というシチュエーションは、国を代表するあの書物と符号してくるのです。                     (つづく)

3世紀 奈良盆地の古墳 
ホケノ山古墳葺石跡
               

全10回 **************************************************
(1)古代王は誰?        (2)殺された109体は何を語る?  
(3)なぜ大和が都になった?   (4)そして纏向に集まった
(5)神武東征伝説は本当か?   (6)ニギハヤヒの正体は?
(7)ナガスネヒコの正体は?   (8)なぜニギハヤヒはナガスネヒコを殺したのか?
(9) 箸墓古墳はなぜつくられたか? (10) 纏向は邪馬台国なのか?


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