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祝! 世界遺産< 百舌鳥・古市古墳群>の被葬者は誰だ?

昨日、大阪初の世界文化遺産、決まりましたね!
百舌鳥(もず)・古市古墳群が世界文化遺産に登録されるって、古代史ファンの私としても嬉しいー!
でもご注意ください。あそこ、観光には不向きです。行く人はがっかりしないようにね。

なぜって、大きすぎてただの森にしか見えないんです(泣)。空からでないと前方後円墳の形に見えません。1600年前には、土を何段にも盛り、葺石をほどこして、無数の埴輪を立て巡らせた、ものすごい壮大な建造物だったと思いますが、やがて木々の種子が飛んできて巨大な森となってしまいました。う~ん残念。
    (下の写真は復元した前方後円墳(五色塚古墳・保渡田古墳))

じゃぁ、この古墳の主たちって誰だったのか、ちょっと深掘りしてみましょう~。

この百舌鳥(もず)・古市古墳群には、日本第1位の巨大古墳「仁徳天皇陵」と第2位の「応神天皇陵」が含まれていて、それ以外にもでっかい古墳だらけ。今回世界遺産に指定されるのは49基、というヤバイところなんですね。

実は、この大阪府にある古墳群は、みんなニュータイプなんです。
クラシックタイプといえば、お隣の奈良県。
3世紀に三輪山のふもとで前方後円墳は発祥しました。
そう、この三輪古墳群(仮称)こそが、古代天皇・ヤマト政権の誕生地です。
ところが4世紀後半になり、奈良盆地を飛び出し、高くそびえる山脈の向こう側の、大阪湾側の海沿いの土地に都はつくられるようになります。
しかも場所が移っただけでなく、出てくる副葬品に武器・馬具・甲冑などが目立つようになっちゃって。それまでの副葬品は、銅鏡や装飾品など祭器の道具だったから、祭祀王朝から軍事的王朝へ、性格が変わったのでしょうか?

実は、ここに王朝が交代したのではないか、と唱える説が有力です

記紀によると、三輪王朝の第14代仲哀天皇(4世紀)のとき、何か、ただならぬ事件が起きました。
仲哀天皇が九州の筑紫へ遠征に出かけた際、身重の奥さん(神功皇后)に海神が取り憑いちゃうんですね。で、そのお告げをきかなかった天皇は、呪いにかかってパッタリと突然死してしまう!
そこで妊婦の神功皇后は、石を腰に挟んで子が産まれないようにして(え?)、朝鮮半島へ戦いにでかけ、三韓を相手に勝利。さらに筑紫で子を産み落としたあと、その乳飲み子とともにヤマトへ戻り、今度はなぜか仲哀天皇の皇子たちと戦い、勝利し、政事の実権を握ります。
まさに女傑。というか、ありえないだろう?と突っ込みたくなります。

で、その乳飲み子こそが、第15代応神天皇。応神天皇は都を奈良盆地から大阪湾の海沿いへ移し、ここで政事を始めたわけですね。
昨日、世界遺産になった誉田御廟山古墳は、この応神天皇の陵と言われています。

おそらく、王朝が交代したのは間違いないでしょう。
私の考えるには、神功皇后はやっぱり架空の人物。仲哀と応神を無理やり親子とするために作られた人物だったと思います。実際は、九州から朝鮮海峡にかけて活躍した海人・応神天皇が、ヤマト政権の傘下にあったけれども、4世紀後半クーデターを起こして、ヤマト入りしたんだと考えています。

こうして、大阪(河内)に王朝が誕生しました。
海の近くを都としたのは、瀬戸内海を水路と考え、そこから朝鮮・中国へ進出することを想定したからでしょう。海人族らしい海外を見すえた発想ですね。
河内王朝は、こののち応神の子の第16代仁徳天皇が、世界最大の古墳を築造。さらに17代履中ー18代反正ー19代允恭ー20代安康ー21代雄略天皇と、「倭の五王」と呼ばれる絶頂期をむかえ、全国を平定させていきました。特に第21代の雄略帝は「ワカタケル」といい、埼玉県や熊本県の古墳からこの大王の名前を刻んだ銘文の鉄剣が発見されました。これは、勢力範囲が九州から関東まで確実なものになった、っていう物証。古墳も、三輪王朝の前方後円墳をさらに巨大化させ、ニュータイプにしていったわけです。
真に倭国を統一させたのは、この百舌鳥・古市古墳群<河内王朝>の天皇たち。まさしく世界遺産にふさわしい日本の貴重な宝ですね。
以上、ぼーっと古代史でした。


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