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『実話奇彩 怪談散華』と"蝙蝠エリちゃん"

SNSに怪談本の感想を書かないことについて

ある時期からSNSにあまり怪談本の感想を書かなくなった。
きっかけははっきりあって、ある作家さんの初めての単著であった怪談本を面白いとツイートしたときに、「先輩作家様に褒めて頂きまして光栄です(大意)」と返信を頂いたことがそれだ。
ここでこの作家さんを非難する意図は全くなく、また実際にいかなる非も生じていないということは強調しておく。ただ自分としては、「怪談作家」という立場にあって「怪談本の感想」を述べることでそれがある種の権力図式を起動するというか、権力の勾配が生じるということを、それまで全く意識したことがなかった。
無邪気に過ぎるだろうと言われそうだけど、自分はあくまでも「怪談マニア」の延長の意識で怪談に触れていて、感想を書くことにもそれ以上の意味はなかった。
自分が感想を書くことによってそこに何かの権力構造が生じたりするようなことは全く望んでいないし、馴れ合いや身内ノリ的なものにコミットしようという意識もない。いわゆる「怪談界」に属しているという認識もない。外からそのように見られることも望まない。
そういったところで(図らずも?)自分が何かの権力を発動してしまうということに忌避感があって、今のところは怪談本の感想を述べることを控えている。
(※9/7追記……上記の内容には、純粋にこの記事が私の興味によってのみ書かれておりますという以上の意味はないのですが、読み返すとやや論旨が誤解を招くような部分がありますね。私の記述力不足によるものです。申し訳ありません。)

『実話奇彩 怪談散華』について

……という前置きをいちいちした上で怪談本の感想を書く、というのはSNS上では難しい。なので、ここで怪談本の感想を書く。

『実話奇彩 怪談散華』とても面白かった。
三者の共著によるアンソロジーなのだが、語り口やネタに大いに攻めたものが多くありつつ、不思議と全体の調和がとれている。
独自の文体と語り口を洗練させてきた高田公太氏、多様性という観点から怪談にアプローチする卯ちり氏、不条理怪談の流れを汲むトリッキーなネタを展開する蛙坂須美氏。強い個性が絶妙に混じり合う、新鮮な味わいの怪談集になっている。

特に好きな話
挙げるとキリがないのだが、
"件の剥製"
"夜蜘蛛"
"安アパートの怪人達"
"シンガポールにて"
"名前"
"彼女の友達"
"犬の死骸"
"犬行列"
"カンカンカン"
"ギリギリ"
"酒乱"
"酒場"
"ベンベベン"
"コート"
"喜びあり"
"いなくなったほうのおかあさん"
"絶対"

"蝙蝠エリちゃん"について

本の最後に、"蝙蝠エリちゃん"という話が収録されている。
この話について書くためにこの記事を書いている。
以下は話の内容を分かっているという前提で書くので、先に本に目を通して頂ければと思う。


"蝙蝠エリちゃん"は典型的な幽霊譚だ。
曲者ぞろいの本書の最後に配置されていながら、ある意味ストレートなエピソード。
もうひとつ、この話はなにか衝撃的な話、"強い話"というようなタイプの話ではない。
監視カメラの録画に残っていた幽霊の姿を見てしまう。ただ、それによって呪われたり、実害を被るわけではない。シンプルな"幽霊目撃譚"だ。
にも拘わらず、この話は圧倒的に「怖い」。
同時に、奇妙な美しさがある。

自分の二冊目の本、『蜃気楼』では、一冊目と方針を変え、意識的に幽霊譚をそれなりの数扱った。
これには一応ねらいがあって、何かというと、「幽霊の再魔術化」というのがそれになる。奇妙な言葉になってしまっているので、それらしく整理すると、「再降霊」、降霊しなおすこと、になるだろうか。
最早怪談においてシンプルな「幽霊譚」の価値はあまりなくなっている。幽霊を見た、だけでは話になりにくく、それでどうなった?ということになる。幽霊そのものはあまり物語上のフックにならない。
本当にそうなのだろうか?
「幽霊だけでは面白くない」のではなく、幽霊をないがしろにして雑に扱ってきた先にそうした状況があるのではないだろうか?
本来、幽霊譚というものは、もっと面白く、怖く、美しいものなのではないだろうか?
どの程度実現できているかは分からないが、幽霊譚を「語るに足る新しい物語」として語り直すことに自分の関心があった。

"蝙蝠エリちゃん"はそれを見事に形にしている。
新しい幽霊譚。
降霊の儀式としての百物語が幾つもの物語によってひとつの霊を降ろすものなのだとすると、(本書に収められているのは話数こそその半分ほどだが)この本の最後に"蝙蝠エリちゃん"がやってくるのは必然的な構成に思える。
それほどに特別な一編だと思う。

あれを見る前と後では、私は別の人間です。

体験者はこのように述懐する。
本来、幽霊と出会う、とはこういうことなのだろう。
呪われるとか、枕元に立たれて首を絞められるだとか、そうした話は幽霊の恐ろしさの中心にはない。
最もおぞましく、恐ろしいこととは、以下のようなことだと思う。
それを「見た」ことで、自分の内面がどうしようもなく変容させられてしまうこと。
そこから戻ることは、今ではもうできないということ。
逆にいえば、本当に恐ろしく、美しい幽霊譚には、そのことだけで充分なのだと思う。
この話の中では「霊」や「幽霊」という言葉も用いられていない。この物語の中で読み手は、まっさらな状態で幽霊という(非)存在と出会い直す。
「新しい物語」として幽霊譚を語り直すということの、最初の達成のひとつだと思う。


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