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「問題です。日本でい」のタイミングで解答ボタンを押すことの論理的な正当性 『君のクイズ』小川哲

 僕は当たり前の前提に気がつく。
 クイズに正解できたときは、正解することができた理由がある。何かの経験があって、その経験のおかげで答えを口にすることができる。経験がなければ正解できない。当たり前だ。
 クイズに答えているとき、自分と言う金網を使って、世界をすくいあげているような気分になることがある。僕たちが生きるということは、金網を大きく、目を細かくしていくことだ。今まで気づかなかった世界の豊かさに気がつくようになり、僕たちは戦慄する。戦慄の数が、クイズの強さになる。


「日本で一番」という言葉を突然提示されたとする。
直感的に頭に浮かぶイメージはどんなものだろうか?
おそらく10人いたら9人の人は、富士山を思い浮かべるのではないだろうか(メチャクチャひねくれている人は信濃川とか言うかもしれないが)。
日本で一番、という言葉は、少なくとも直感の領域では富士山の枕詞なのであって、だから素直に想像するのであれば、続く言葉は「富士山」であると考える。

ここにひとつのクイズがある。
正答を競う形式は早押しクイズで、問題が読み上げられている途中でも解答ボタンを押すことができる。

「問題です。日本で一番」

この時点で、富士山、と答えたくなる。が、それは気が急きすぎている。
クイズ番組で、クイズの定型というものを意識したことはないだろうか。たとえば、以下のような。
「〇〇といえば××ですが、では…」
「世界三大○○といえば、××、△△、あと残りひとつは…」
今回の問題の場合には、もちろん上の形式になる。これを「ですが問題」という。
問題の読み上げがもう少し進む。

「問題です。日本で一番高い山といえば富士山ですが、では、」

ここで捉え方が近視眼的になってしまうと、「では」によってそれまで読み上げられた内容がリセットされてしまって、この時点でクイズの答えを導き出すなど不可能、というようなイメージを一瞬持ってしまう。
持ってしまうのだが、実は、この時点でクイズの答えはほぼ確定している。
では、のあとに続くのは、文章の前半部分に対比的な内容だ。
このクイズにおいて、その宛先はほぼ2パターンしかない。
「では、日本で二番目に高い山は?」
「では、世界で一番高い山は?」
このふたつ。これだけだ。
「では、その標高は何メートル?」というような形も考えられそうに思えるが、これだと「ですが」の用法がやや不自然になる。
問題の読み上げが更に進む。

「問題です。日本で一番高い山といえば富士山ですが、では、に」

答えがこの瞬間に確定したのが分かるだろうか?
「に」ということは続く文言は「日本で二番目に高い山は?」だと予想できる。こういうポイントを「確定ポイント」と呼ぶ。
だから、確実に正解を取りにいくのならボタンを押すタイミングはここになる。
答えは「北岳」だ。

「確定ポイント」を待つのなら話はここで終わりなのだが、このクイズの中には他にもボタンを押すタイミングが存在している。

「問題です。日本でい」

ここがそれだ。
この「い」から続くような言葉は意外と少なく、この時点でほぼ「一番」だという判断になる。であれば、最初に書いたように「日本で一番」にかかる言葉は「富士山」なので、続く問題文は予想できる。
もしクイズが典型的なナナマルサンバツ形式、つまり七問先取ただし三問誤答で失格、の形式をとっているとして、すでに自分がふたつの誤答をしているのなら、確定ポイントを待つのが賢い。ただ、立場が逆で、競技の終盤、相手がふたつの誤答で、自分にはまだ誤答の余裕が残る、という状況だと、「北岳」「エベレスト」の二択を運に任せてみる判断は充分にありうる。
競技の終盤か序盤か、と書いたが、たとえば終盤、競技において重大な局面で「エベレスト」のような誰でも分かる答えを用意するというのは考え辛い。そうした状況要因で答えを絞ることもできる。
少し脇道に逸れるが、このクイズにはもうひとつ別の可能性と、その判断ポイントがある。
問題の最初が「問題です。日本で最も高い山は」となる場合だ。「日本で一番」でなくて「日本で最も」のときには、続く文言は「では、日本で最も低い山は?」となる可能性が大きくなる。答えは「日和山」だ。入れ替わりに、「二番目」、つまり「北岳」の可能性が消える。

ここまで読んで、希望的観測ばかりじゃないか、と思われるかもしれないのだが、そもそもクイズとはそういうものだ。
問題を作る立場になって考えてみるとよく分かる。問題の読み上げ途中での正答が不可能な、極端に意地の悪い問題を作ることなど、いくらでもできる。でも、そのような問題にはクイズとして何の価値もない。
クイズの価値とは何か。
それは少なくとも、間違えられることではない。それよりは圧倒的に、正解されることだ。
クイズを作るとき、人は、正解してほしいと考えて作問する。
上で長々と考えた「富士山問題」はベタ問中のベタ問だ。これがなぜ「模範的なクイズ」とされているかということが、こうやってここまで検討してみて、よく分かる。
美しい問題だ。
短い問題文の中に、幾つもの駆け引きと勝負のポイントが設けられている。テレビなどで漠然と眺めていると、われわれはつい、クイズなどは競技ではない、とすら考えそうになる。つまるところ、答えを知ってるか知ってないかじゃん、と。
でも実際には、それは入り口でしかない。答えを知識として持っているのは当たり前で、そこに至るまでの、問題、そして対戦相手との繊細な駆け引きがある。


といったところで、『君のクイズ』。
小説は、賞金一千万円をかけた早押しクイズの決勝戦、最終局面から始まる。主人公の三島玲央と対戦相手の本庄絆が一対一で勝負を決しようとしている。
ナナマルサンバツで両者六問正解、最後のクイズ。
「問題、」
このタイミングで本庄が解答ボタンを押す。
ありえない。
考えなくても誰だって分かる。問題が一文字も読み上げられていないのにクイズの正答を導き出すのは、不可能だ。
本庄にはすでにふたつの誤答がある。三島は本条が緊張のあまりミスをした、あっけない終わりだ、と考えるのだが……。
本条はクイズを正解する。

「ゼロ文字正答」という不可能、不条理をめぐって、三島はその決勝での本条との戦いを一問目から振り返り、再検討していく。
イカサマのヤラセでしかありえない、とも考える。が、「ゼロ文字正答」が常識的に考えれば「イカサマでしかありえない」ことが、逆にそこにイカサマがないことを証明している。
ヤラセなら、こんな批判や避難の殺到することが見えきっている方法でなく、もっとうまくやるはずだ。ただ本条は三島に勝つために「ゼロ文字」のタイミングでボタンを押した。
では、「ゼロ文字正答」が成り立つ条件とはどんなものなのか?

という話。
イカサマもオカルトもSFも奇跡もなく、ただただロジカルにクイズという競技を突き詰めていく。この小説の面白さについては、すでに上の「富士山問題」を通じて充分に書いたつもりなので、以下は余談のようなものということで。

面白いと思ったところで、クイズの選手は答えが分かってからボタンを押すわけではない、という記述がある。
ボタンを押す瞬間には、まだ答えに辿り着いていない。ただ、「わかりそう」という直感だけがある。「わかりそう」だと思ったらボタンを押す。それから頭の中を引っ掻き回して答えを探す。
この話って何か他の本、大澤真幸かな?そのあたりでも読んだ記憶があるんだけど、すごく興味深いと思う。
今この瞬間の自分が辿り着いていない答えに、数秒後の自分は辿り着いている。その未来の自分という他者に賭ける。知識というのはもう自分の限界まで行ってしまって、あとは自分もまだ到来していない「未来の時点の不透明な自分」に賭ける、そういう祈りのようなもの、信じるということ、それがクイズという競技の基底を成しているんじゃないか。
「作問した出題者の『正解してほしい』という願いに賭ける」というのもそうだ。
たぶんこの人たちは、実力を磨くこととか、そういった競技者としての前提のずっと先で、最後は他者を信じて、他者に賭けること、そういう領域を受け容れて勝負している。
と、同時に、この物語には、その「信じること」をすらも更に超えて、宿命というか、運命というか、そういうものがときに勝負を動かしうる、ということをすらも書いている。そして、その番狂わせのような運命もまた、他者が運んでくる。
『Undertale』と『響け!ユーフォニアム』、『刀剣乱舞』。
最後まで読み終わったときに、これについて書かれている箇所を考えてみると、そのことが余韻として深く響いてくる。


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