美を綴ることについて。 『言葉の獣』 鯨庭
既刊一巻。
言葉が獣の形で見えるという共感覚の持ち主・東雲さんと、詩が好きだが自分の中のその気持ちに対してどこか腰が引けているやっけん。クラスメイトの二人が、共同のツイッターアカウントを作って美しい言葉を探す。
とても……ここ最近読んだマンガの一巻の中では飛び抜けて……感銘を受けたんだけど、同時にちょっと語りにくい作品でもあるなと思った。
詩を主要なテーマとして扱っているだけに、面白さの質も散文的なところがあって。
つまり、物語の強力な引力で引き込んでくるような作品ではない。
それよりは、森の中を歩いていて、ふと足もとに小さな花を見つけるだとか、苔生す朽ち木の表情がいいだとか、そういうものを見つけていくような……そんな経験に近い。
それは主人公たちの素朴で等身大だが魅力的な表情であったり、さりげなく散りばめられたマンガ的な表現の技巧であったり、自然を媒介に現実と幻想をなめらかに繋ぐ手法であったりする。
もしくは、以前に『リモデリング』についても書いたように内面──テーマ──と外面──イメージ──の一致、つまり言葉を幻想的なビジュアルに変換して見せること、が物語のレベルと表現のレベルで一致して見られる点、でもある。
こういうとりとめのない語りをついしたくなるような作品ではあるのだが、ここでは一旦、語りの軸を作品の中の言葉に置いてみたい。
単純に「はっとさせられる」ような言葉の多い作品である、という以上に、書き手としての自分の深いところに触れてくるような言葉が幾つもあった、というのがその理由。
たとえば、こういう言葉がある。
ツイートって、詩に対して「これは詩ではない(から恥ずかしくない)ですよ」というエクスキューズを用意してくれる仕組みでもあるなと思う。
ただ、だからこそ、その場にあって「これは詩(短歌、俳句、etc.etc.)です」と表明したうえで書くことには特別な意味があるよなとも感じる。
今日びあえてそうする人々というのは、その「痛さ」を例外なく自覚しているし、その「痛み」を引き受けた上で表現しようと覚悟しているはずだ。
「痛み」の価値があると信じるからそうしているはずだ。
そもそも「ポエム」みたいな言葉を笑いの種として使おうとする風潮というのは、何だろう。言葉を美しく用いたいとか、本当の心を表現したいとか、それを嘲笑うような空気というのは何だろう。
何を恐れているのだろう。
この感覚って自分が言葉について考えるときの起点になってもいて、たとえば「りんご」と「apple」だとか「猫」と「cat」が同じものを指している、というのは納得できる。
その一方で、「愛」と「love」はどうなのか。「悲しみ」と「sad」はどうなのか。
これは明らかに意味が違う。というかそもそも、これらの言葉が無理矢理に囲んでいるものは、本来ひとつひとつが、一般化もできないほどに全く別々の固有の性質をもったものだ。
「美しい」はその極端な例だろう。
「美しさ」の質は、あらゆる言葉でありうる。
虹や朝の光や、整然とした直線で構成された工業製品、写実的な絵画から得る「美しい」の感覚がある一方で、精緻なウェザリングの施されたプラモデルを見て「汚さ」が「美しい」と感じることがあり、手つかずの原生林の自然の中でその「混沌」を「美しい」と感じることがある。
そしてその「美的感覚」は突き詰めるほど個人の内にあるものであって、同じものに対する感想でも実はポイントが微妙にズレていたりする。
だから「美しい」はトートロジーでしかあり得ないかもしれない、とすら思う。
「美しい」から「美しい」のだと。
それが「心」という究極的にパーソナルなものに向かっていくという感覚はよく分かる。
言葉とかコミュニケーションといったものを、そこを起点に改めて考えるということも。
「心」は「伝わらない」かもしれないが、それでも「伝えようとすること」は無意味ではない、というか、大いに意味がある、と思う。
最初に毎日テキストファイルをアップロードするサイトを作って怪談を書き始めたときからずっと、怪談は文芸としては詩にとても近いよな、という感覚がある。
これは茫洋として言葉にするのが難しい感覚で、今でも書きながら折に触れてそのことを考えたりする。
ここ一、二年のことだと思うが、自分は「怖いもの」を書くことにはあまり関心がないな、ということに気がついた。それよりも「美しさ」、「怪談なりの美」を描きたい。写真か絵画を鑑賞するようにひとつのシーンを描き出せればいい。そのように思っている。
それを「詩」という言葉で薄ぼんやりと感じながら書いていたのかもしれない。
このことは表層的な話だけでなくて、自分なりの倫理への意識もある。
怪談というものは、きわめてシニカルな方向に流れやすい。シニカルさへの道が舗装されている、とすら思う。
怖い、だけならいい。怖い、をゴテゴテと装飾しようとするときに、それは妙な性質を帯びてくる。
どうだ?
人間って弱いだろ?
人間ってくだらないだろ?
人間って卑しいだろ?寂しいだろ?醜いだろ?虚しいだろ?
という方向にいくのが非常に楽というか、それを描くのに長けている、というか……。
更にはそれを「実話なので(=現実はこんなもんなので)」という言葉でお手軽に補強できてしまったりもする。
そのことに対して、もううんざりしている。
シニカルであることを知性と履き違えたような世の流れや、それに乗っかって薄っぺらな価値観を拡大再生産することに対して。
理想や希望や善性や美といったものを語るのはバカのすること、という思考停止に対して。
文学や表現がそこにフリーライドしようとするなら、それは怠慢以外の何でもないと思う。
そして、だからこそ「美しい文章を書こうとする姿勢」はそれだけで「詩」なのであって、尊い、賭ける価値のあるものなのだと考える。
それを「痛い」と呼ぶのならそれでも構わないが、その「痛さ」をセーブしない言葉によってだけ掬い取れる「痛み」があるはずで、そういう言葉はきっと美しいだろうと思う。
先にテーマとイメージ(ビジュアル、という言葉もあるかな)の一致、ということを書いたけど、そこに面白さのひとつの要点がある作品だなと思う。
「美しい言葉」を表現しようとするとき、普通選ばれる形式は詩や小説であるはずで。それをマンガで表現する、という非凡さが、唯一無二の形をとって出力されている。
この記事の中で作中の言葉のいくつかを引いたけど、それらがビジュアルとしても描かれるのが本作で、こればかりはいくら文字を費やしても文字通りの「言葉足らず」にしかならない部分でもある。
なので、やはり実際に読んで頂いて……という着地になってしまうのだが、特に言葉について考える人にとっては楽しいひとときを過ごせることを保証する。
そうして自分の「言葉の獣」はどんな姿だろうか?などと考えると、言葉への向き合い方もまた変わってくる気がする。
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