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乗り越えてきた夜、「人間」が写し出すもの

先日、ピースの又吉さんの「人間」を読んだ。
振り払おうとも振り払うことができない自意識とその周りを取り巻く人間たちの複雑さや気味の悪さが物語の全体として描かれていて、そうした生きづらい世の中を永山と影島はどう生きていくのか、もしかしたらこれからの自分の人生にも起こることかもしれないと、少しハラハラしながら読み進めた。又吉さん自身の人生が、随所に散りばめられているような気がして、永山と影島の両方が著者の化身となって存在しているように感じた。

この作品の中で印象深かったことは、永山と影島から見た人間たちの醜さや汚さと周りの悪意によって照らし出される永山と影島の醜さや汚さが平等に描かれていると感じたことだった。
たしかに悪意や意地汚さみたいなものが蔓延している世の中ではあるけれども、自分に目を向けてみると、客観的に見れば周りの嫌な奴らと大して変わらない部分が自分にもあるということを体感させられた。

永山と影島の醜さや汚さに関しては、彼らの内面やそれにいたる背景が描かれているため、ハウスの住人やネット上の不特定多数から向けられる悪意が不憫でならなかった。彼ら2人の中では成立している物事でも、世間ではスキャンダルや悪いこととして、他人には全く理解されず、誹謗中傷という極悪な暇潰しのおもちゃにされてしまう。周りの人間は個人の内面や裏事情のような柔らかいところを優しく触るのではなくて、それをぐちゃぐちゃにしてかき混ぜ、初めからなかったもののようにして扱うことが得意なようで、そうすることが正義のようなフリさえしていると思う。一度も関わったことのないような相手に対してお手製の不格好な正義の剣を振りかざし、相手にぶつけている。切れ味は当然悪いが、馬鹿みたいに重いので打撃にはなる。何度も何度もたたくから、やがて致命傷となって相手は死んでしまう。小説の言葉を借りるなら、みんな忙しくて人のことを考える暇はないのかもしれないけど、やはり何も考えなくていいとは自分には思えなかった。

自分の立場に置き換えれば、「人間ってそんなにきれいな存在じゃないよね」ということはわかりきっているはずだ。それなのに、どうして他人のこととなると人間であることへのハードルを極限まで上げて、鬼の首を取ったかのような顔で悪意をむき出しにできるのだろう。人間が他の人間を評価して見下すなんておかしくないか。そんなことができるとしたら、それは神様くらいなんじゃないか。

僕は過去に「みんなで出した結論として、お前はいじらないとつまらない。」「お前の自発はつまらん。」と先輩たちから言われたことがある。
僕個人の体験として、自分の醜さが他人の悪意によって照らし出された瞬間だった。
彼らがどういうつもりで言っているのか、最初は分からなかった、一種のネタとして言っているのか、本気で言っているのか分からなかったが、深く傷つけられたことはたしかだった。

たしかに僕は周りのおかげでみんなに笑ってもらえていたのかもしれない。しかしながら、彼らも僕をいじる行為によって笑いをとっていたのだから、たとえいじらなければつまらないのだとしてもあなたたちだけの手柄ではなかったんじゃないか。そもそも、僕がいじられなければつまらないのではなくて、他にも方法はある中で、彼らがいじる(いじめる)ことでしか笑いを生み出せてなかったんじゃないか。
僕は僕でその面白くもなければ、返さなくてもいいようないじりをわざわざ返してなんとか成立するように協力してあげているつもりだった。
返さなければ返さないで寒いと言われるので、見た目や性格について傷つくようなことを言われても我慢した。どちらにしろ、「いじらなけらば、つまらない」という暴論は彼らが白旗を上げたに過ぎないと思っている。

それでいて悪意に晒し続けている自覚もない彼らは本当に同じ人間なのか、僕には判断がつかなかった。

誰しも他人の悪意に晒されて辛い夜があると思う。彼らにあの言葉を言われた時、正直「生きるのは、もういいかな」と思ってしまった。今思えば、そんなバカみたいなことで、悩むのはバカらしいと思うが、当時は本当に辛かった。それでもそうした辛いことをエッセイに書けるようになり、自分のやわらかいところを優しく触れてくれる人たちに出会えている今は、その夜を乗り越えてきてよかったと心の底から思うことができる。

最後に、又吉さんの言葉をお借りしたい。「バッドエンドはない、僕たちは途中だ。」

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