冬と浮遊(日々は風船後日譚)【短編小説】

 あれから何ヶ月も経った。
 かつて占領されていた団地は、今では驚くほどのんびりした時間が流れている。多くを失った悲しみを帯びる風が吹いたり、恐怖に縛り付けられた緊張が一気に解けた安堵だったりと多種多様な雰囲気が装飾されてはいたが、それも季節の移り変わりと共に落ち着いていった。

 ナ国は撤退した。その速さは脱兎の如くであったらしい。
 聞いた話によるとこうだ。
 団地を奪取しようと都市軍が工作員を送り込んでいた。彼らはナ国の上層部が重用していた有能な兵士を惨殺し、さらに団地の敷地に繋がる出入り口付近で二十名以上の兵士を爆殺した。
 その有能な兵士の亡骸を持ち上げると下敷きになったメモが発見された。工作員に関するメモだったのだろう。彼は情報を掴んだ故に消されたのだ。
 すでに団地の至る所に都市軍が紛れ込んでいると判断したナ国は用意周到、予測不能の蜂起を恐れ素早く戦線を引いた。
 あたしが目を覚ましたとき、医師はそう教えてくれた。

 団地が解放されたあと、ナ国が死体置き場に使用していた場所であたしは助けられた。熟した林檎のように頭部が血に染まっていたものの、微かに息はあったようですぐに隣町の医師のもとへ運ばれ治療を受けた。
 約一ヶ月の間、生死の境をさまよいながらも見事復活を遂げる。記憶にないが起き抜けの第一声は「作戦成功!」だったそうだ。医師は苦笑しながらこれまでの出来事を教えてくれた。

 それから二週間。傷口の抜糸が終わり、体力もそこそこに回復すると団地へ帰る許可が下りた。
「いざ、参らん。我が愛の巣よ」
 びっくりするだろうな。泣かせちゃうかもしれんな。萎んでびろーんってしてたらどうしよう。すまん、すまんで済ませられるかな。
 あの人のことを考え、ニヤニヤが止まらないまま家路を急いだ。

「あたしのご帰宅である!」
 勢いよく開けた玄関扉の先の返答は静寂だった。多少埃っぽくあったが荒れてもおらず、あの日部屋をあとにしたままの状態に見えた。
 あの人は出かけているのかな。挨拶回りついでに近所で聞いてみるか。
 あたしの帰宅を泣いて喜んでくれたり同情してくれる人はいたが、あの人のことは結局わからずじまいだった。
 持っていきな、と林檎を二つ貰って帰ってきた。一つはあの人用。もう一つは食べちゃおうと、ナイフを探したが見つからない。切れ味も握り心地も良い小ぶりのナイフだった。
お気に入りの物には名前を書かないといけない。柄の部分にあたし専用と文字まで記した。それなのに無くしてしまっては意味がない。
 しかし探そうとする思考よりも林檎の瑞々しい魅力が勝った。
「食べちゃいたいくらい可愛いね」などと言いながら知恵の実に歯を立てた。

 体温が半分になった部屋はとても寒い。今日こそあの人は帰ってくる。それを裏切る夜を何度越えたのだろう。季節はだんだんと寂しくなっていき、こんなに冷えるのに窓を彩る木々は服を身に着けなくなった。いつか貰った林檎も水分を失い、腐ったので捨てた。

 週に二回、地域密着型のスーパーへ買い出しに行く。気を抜くと心から先に凍えてしまいそうなので、今日は特段に辛くて甘いカレーを作ろうと思い立ち、たくさんのスパイスと玉ねぎを買い込んだ。
 その帰り道、「浮遊ちゃん」とあたしの背中を呼び止める声があった。
 振り返るとスーパー近くの棟に住む見知った顔の老人だった。団地が占領される前も買い物帰りによく世間話をしたものだ。あの頃に比べると体格がずっと小柄になっていた。
「お爺じゃないか。息災か?」
「久しぶりだのう。この通り元気だよ」
 両腕を天に掲げて屈伸し、お爺は自慢げに答えるのだけれど、驚きを隠す人特有の引き攣った笑顔が妙に引っかかる。
「あのね、あたしは浮遊ちゃんじゃなくて、『冬』ちゃんだよ。お爺よ、ボケるには時期尚早ぞ」
 お爺は「知っとるわい」と下唇を突き出しながら「あだ名で呼んだ方が仲良し感が増すのだ」と聞く耳を持たなかった。

 実際あたしはこのあだ名が好きだ。ふわふわしていて空も飛べそうな感じ。あの人が「ふゆ〜」と語尾を上げて呼ぶので、それを聞いた人々の中でいつの間にか『浮遊』ちゃんが定着していた。本名と思っている人も多い。
「ところで真面目くさった彼は一緒ではないのか」
 問われたとき、不意に強い木枯らしが吹いた。鎖骨で切り揃えられたあたしの髪を風が洗っていく。
 お爺は目を見開いた。眉間にシワが寄り、眉毛がハの字に垂れる。それから頭を弱く振り、「座って話そうか」と公園へ誘った。
 あたしの左耳はもう無い。こめかみから後頭部にかけて傷痕が一閃している。それを見たお爺は何か思うところがあったのだろう。
「少し厚着してくるから先に行っといてくれ」
 了承するや否や、お爺は足早に自宅へと向かっていった。

 ベンチに座り、辺りをぐるっと見回す。団地と公園を隔離するみたいに草花が周囲に植えられている。暖かい時期は花と緑に囲まれ、童話の世界に迷い込んだような錯覚を覚えるが、吐息に白が混ざる季節の今は華やかさも色を無くす。
 ここから少し離れた先に、あの日あたし達が目指した場所が見える。夜になると強い光を放つ街灯付近の出口。そこを守る派遣された都市軍の警備員がカカシに思えた。

 待たせたのう、とダウンジャケットを着込んだお爺は温かい缶コーヒーをあたしに手渡しながらベンチに座った。
「息子が死んでなぁ」自分の分の缶コーヒーのプルタブがカシャリと音を立てる。
「ナ国が攻めてきたときに若い衆どもと連れ立って戦いに行きよった。全滅だったがの」
 一口飲んで、コーヒーの苦味とは決して違うしかめ面を浮かべた。
「わしら、年寄りは怯えて引きこもるばっかりだったのに、若いもんは必死に守ろうと命を散らしていきよる。普通逆だろうて」
 彼らの命と引き換えに生き残ってしまった。逆なら、逆なら、と唇を震わせる。
 そうか、お爺の身体を小さくしているのは罪悪感だ。それが無数の針となって心を突き刺し、お爺を萎ませている。
「浮遊ちゃんも戦ったのじゃろ。浮遊ちゃんとあの彼がナ国を追い払ってくれた。二人には本当にすまんことをした」
 頭にはてなマークが浮かんだ。
「お爺、何言ってるかわかんないよ。あたしは逃げようとして撃たれたの。ほら、あそこの出口を見て。あの街灯の下まで行った記憶があるだけ。それに都市軍が団地を解放してくれたんでしょ」
 逃避行作戦の目的地を指差しながらお爺の勘違いを正す。
 ではこれはなんだ。とお爺が取り出した物にますますわけがわからなくなる。
 小ぶりのナイフ。一度帰宅した際に持ってきたのだと言う。刃は赤茶色の染まりと欠けが目立ち、木造の柄の部分は所々えぐれていた。しかし、かろうじて読める『浮遊ちゃん専用』の文字。なぜお爺がこれを持っているのか疑問だらけだった。
「ナ国の奴らが大勢死んだ日、わしはこの公園にいたのだよ」
 お爺曰く、自暴自棄が高じて兵士どもに一泡吹かせてやろうと刺し違える覚悟で徘徊していたが、やはり怖くなり公園の繁みに身を隠していたらしい。
「銃声がそこの棟から聞こえて」顎で指し示す。
「時間をおいてから出口の方で大きな爆発が起きての。こりゃまずいと逃げ出そうとした時にこのナイフが降ってきおった」
 灯りにかざすと浮遊ちゃんと名前が記してあったので、そのまま持ち帰ったそうだ。
「都市軍が来たのはナ国が撤退した一週間もあとよ。面子のために工作員が解放したというプロパガンダを流しとる。わしは浮遊ちゃんと彼こそがここを救った英雄だと。そして死んだとも思っておった」
 買い物袋を持った浮遊ちゃんを見かけたときは幽霊と思って心臓が止まるところだったわい。お爺はそう言って力なく笑い俯いた。
「彼はどうしたのかね? もしかして……」
「わかりかねる」
 避けていた予感を一刀両断する速度で食い気味にお爺の言葉を遮った。

 医師から聞いていた話との齟齬が多い。知らないままでいたかった出来事が薄い線を引いて繋がっていくような気がする。知らずにいれば期待ができた。知らなければ幻想に囚われたままでいれる。知らないと知るが衝突し始めた瞬間。記憶や感情が猛烈な勢いで回転を始める。あの人の行方が輪郭を持つ。
「あのさ、お爺」あたしは切り出した。
「結果はどうあれ、あたし達は助けられた。亡くなったみんなは守りたかった者の為に戦ったんだよね。願いは達成されたんだよ。残された人は彼らを誇って讃えて自慢していよう」
 だから。寿命が来るまで。罪悪感が邪魔してきても。あたしも今日から罪悪感を抱えちゃうけど。生かされた命を大切に抱えて。いこう。いこう?
 胸が詰まって途中から何をどう伝えたいのか、混乱に支配されながら浮かぶ言葉をまくし立てた。自分でも本心の発言なのか疑わしい。無数の針が血流を巡って痛い。
 でもこれだけは言える。ここで萎んで、死んだように生きてしまうのを誰も望んではいない。犠牲になった者の想いが水泡に帰す。
 お爺は顔を両手で覆い微動だにしない。
「お爺が生きてて、こうして話せたの嬉しかった。息子さんに感謝だよ。あなたにあたしを孫扱いできる権利を与えよう」
 今できる最大限の作り笑顔で「缶コーヒー、ご馳走になった」と明るく声をかけてあたしは公園をあとにする。
 お爺の持つ風船がいつか僅かでも膨らみますように。そう願いを込めながら。

 玉ねぎを刻むと涙が出た。いつもより塩辛い。反射的な涙に感情が宿ると味はこうも濃くなるのか。
 いつだってあたしを守ってくれていたあの人が、帰って来ないわけがない。帰って来れない理由があるなら、ひとつしか想像できなかった。これまでの過程を知らなかった頃はそんな妄想、容易く否定できたのに。

「何のためにあたしが先陣を切ったんだか」
 逃避行作戦は入念に準備をしたし、成功も疑っていなかった。ただ想定外の事態からはあの人を遠ざけたくて、あたしは独断で安全を確かめに向かってしまった。そして運悪く撃たれ、運良く生き残った。
 あの日、あの人に「逃げろ」と言ったのを後悔する。「逃げて生き延びろ」と言うべきだった。
 おそらく言われた通り逃げて、部屋にあるナイフを持ち出し、何か大それたことをしでかしたのだろう。

「君は英雄って呼ばれていたぞ」
 炒めた玉ねぎとスパイスに水を入れて煮込む。ぐつぐつ音を立て小さな気泡が膨らんでは弾ける。あたしの中の心象を現しているみたいだ。あぶくの一つ一つにあの人とのかけがえのない思い出と面影が浮かんでは消える。涙を堪えようとすればするほど顔が赤く、熱くなる。
「あたしを置いていくなんて、英雄どころかバカちんよ」
 窓を開けた。星空の放つ冷たい風がそっと入り込み、湿度で溺れそうな部屋を乾かす。林檎色の火照りは急速に熱を拭い取られ、瞳と鼻先だけに朱の残滓を感じた。

「ごめんなさい」
 守らせてばかりでごめんなさい。
 勝手なことをしてごめんなさい。
 何も知らずにいてごめんなさい。
 君を一人にさせてごめんなさい。
「あたしだけ生き延びてしまってごめんなさい」
 冬の夜空に浮遊した嗚咽が吸い込まれていく。星々の瞬きは呼吸しているみたい。

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