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旅#11 カメラ一台レンズ一本にしようよ


旅の共に僕はLeica M10-RにSummicron-M 50mm f/2を現在愛用しています。それ以外に機材は無いのか!と聞かれることがあるのですが、無いです。哲学というほどのものではないのですが、基本的にレンズをカメラに一本だけということを心がけております。

ふと振り返ってみて、何故自分はこのスタイルで行くことにしたのか考えていたことを記事にしてみます。

不自由を謳歌する

僕が使っているのは50mm f/2一本。単焦点レンズで特別に大口径というわけでもなく、「クセ」のある写りも特にない。そうなると撮れる写真も限られる。

昼下がり、パリ

いいのです、どれもこれも撮ろうという心持ちを持っていては本当に大切なものを撮れなくなれる気がします。もっと適切にいうと「見えなくなる」かもしれません。どこを行こうにもレンズは一本、焦点距離は一つ、表現の幅は狭くなる。その分被写体とは深く向き合い、「感動」と「瞬間」を見つめ合う時間が増える。写真の1番大事な部分ですね。

実際に旅の話に照らし合わせてみます。日没前の春風吹くローマの街中を散歩していると、扉が大きく開いている教会の前で談笑にふける神父さんや参拝者の方々の日常に何とも言われるぬ感動を覚えた。しかし、写真に映るのは匂いも音もない静止画、それをどう落とし込めるかが課題。2−3秒後のは別世界。旅のスナップ写真ではよくあること。

ローマのとある教会

自分なりの答えは教会の中からの見慣れない光と外の世界のギャップ。

さらけ出されて目にみえる外の世界と未知の中の世界が光と扉で区切られている。

そこからはもう簡単で、構図を合わせてシャッターを切る。以上。

感動した瞬間に写真を撮るのがベストなタイミングであるのだから、わざわざその場でスクリーンで見返すのはナンセンス。それ以上のモノは撮れないのだから、その場の空気を楽しんで次に向かうべし。

単純な話だがここに辿り着くには、なかなか難しい。カメラバッグを漁ってレンズを取り替える、ズームレンズで画角を変える、さてF値は何しようなんてやっているうちに心の感動はいずこへ。

お主何をみてるのじゃ


カメラは「自己表現」の道具

写真家のアンリ・カルティエ-ブレッソンはレンズ一本(50 mm)で大抵の場面を乗り越えた。ちなみに彼の伝説的写真集「決定的瞬間」はフランス語のタイトルは”Images a la sauvette”、「逃げてゆく絵」。僕はフランス語のタイトルの方が好きかもしれない。

彼自身は身軽にコンパクトなLeicaにズミクロンを持ち、被写体と真摯に向き合って、自分の美学を写真で表現をした。同じレンズをずっと使っていたので目の延長上になった。同じことを、スティーヴン・ショアも"Modern Instances"で書いていた、「新しいレンズを手に入れたらまず自分の「目」になるまで使いこむ作業をする」。カメラとレンズは自分と表現したいものを映し出す道具であってそれ以上でもない。

伝説になったカルティエ-ブレッソンは1974年には写真家としては引退して画家に転向。彼には写真は表現方法でしかなかった。

つらつらと書いているけれど、写真の本質を忘れている人がたくさんいる気がしてならない。昨今の超解像レンズやら手ぶれ補正で「キレイ」な写真が簡単に撮れる中、そもそも自分が何を撮りたいのかというのを考えない人が多い気がしてならない。シャープな目を見たいから写真を撮っているはずはない。

手数を減らして目の前のこと、自分の中の感動の考察に集中しよう。

ご先祖様?!バンコクにて

写真を楽しむかガジェットを楽しんでいるのか

誰にもスランプというものに陥るものですが、その時に他のレンズに浮気してまた写真を撮ってはこのレンズじゃないんだよなとさらに他のレンズを探す。そのうちにレンズの特性やら味を探究していき、写真を撮る行為がレンズを吟味する事を目的になっていく。レンズ沼です。

昼休みのパリ

全否定するつもりはないけれど、お金と時間がかかってしょうがない。そのお金があるのだったら写真集を買う方がいい。他の人の作品からインスピレーションをもらう。いい作品を見て写真と対話を始めるよりも「何のレンズ使っているんだろう」が先に頭に浮かんでいたら重度のレンズ患者です。

最初っから一本心に決めたレンズを買って、周りの世界を探索して人と話をした方がよっぽど有意義なことです。


古代の雲も現代の雲も同じ、意味は変わるけど


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