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「生」と「死」から考える自らのレゾンデートル

皆さんおはこんばんにちは。えるです。
18歳の時書いた哲学レポート(4000字程度)があったので載せて見ようかなと思いました。テーマはタイトルの通りです。


自らのレゾンデートルについて

自らのレゾンデートルについて考えたことはあるだろうか?このような問いは生きている中で不意によぎる。人間であるなら必ず直面するだろう。自分とは何だろう、なんで生きているのだろう、と。今回は、哲学の観点から考察をしていきたい。まず初めに、世の中に「絶対」は存在しないという言葉があるが、人間である以上、私は二つあると考える。それは、「生」と「死」である。どうせ死ぬのだからといってニヒリズムに陥る人もいるだろう。確かに無駄だ。ただ、本当にそうだろうか?結論から述べると、私はこの世界で生きることに意味があると思っているし、生まれてきたこと自体も、偶然ではなく必然だと思っている。自らの考察から、論展開していくとしよう。生きる意味を見つけることは自己理解にもつながる。

前世の存在

私がこの世界で生きることに意味を見出しているものの一つに「前世」の存在がある。私自身かつて科学絶対主義だったとき、こんな話馬鹿げていると思っていたが、そもそも科学で証明できないことがたくさんある世界で科学に縋るのはおかしいと気づいた。それから、このような形而上学的な世界も信じるようになった。「前世」が自己理解になぜ関係しているのか述べる。カントの思想に「現象世界」というものがある。端的に言えば、すべてに事象には原因があるというというものだ。すなはち、「原因→結果」の無限連鎖でこの世界は成り立っているというものである。人間の一生の時間軸は、過程が何であれ、「生」で始まり「死」で終わる。カントの言う通り、世の中が因果性を孕んでいるとしよう。死ぬ原因があるのは自明だ。癌で死んだとか、殺されたとか簡単に思いつくだろう。では、生まれてきた原因は何だろうか?おそらく多くの人間が思い留まると思う。何故なら、生まれることより前の出来事がないからだ。そこで私は、「前世」というものが生きる意味なのではないかと説く。前世で何をやり残したのかは不明だが、もう一度人間界に生まれてこないといけない原因があり、その結果、我々は生まれてきた。この考えは、カントの思想にも乗っ取っているし、前世でやり残したことを現世で探求するという生きる意味も見えてくるだろう。現世だけでなく前世の存在も視野に入れることで自己理解の助けになる。

十牛図からの考察


前世の存在を意識したとき、何を前世でやり残して現世に生まれてきたのか。その何かが分からない、足りないと思い悩むだろう。しかし、この「喪失感」に意味があると私は考える。この私の疑問に対して「十牛図」は少し貢献した。十牛図とは12世紀頃に作られたもので、10枚の牛の絵が番号順にストーリー形式で描かれているものである。「十牛図」の解釈は様々であるが、私は牛を「前世の自分」、旅人を「現世の自分」と考えた。今回は「廓庵十牛図」を用いて、自らの考察を述べる。第一図尋牛では、旅人が牛を探す場面から始まる。人生という旅で、生きる意味を見失ってしまった人間が、「何かが足りない。何かが失われている。」と、己を探求し始める場面と解釈した。そして第二見跡、第三見牛と、失われていた「何か」に手がかりを見つけて、それを追っていく。何故生まれてきたのかをカントの現象世界で考えたとき、この牛こそが「前世の自分」なのであり、生まれてきた原因を孕んでいるのではないかと私は考えた。さらに、第四得牛、第五牧牛と「前世の自分」と対面し、一緒に行動することで自らが前世でやり残したことを考える。しかし、相手は牛だ。口はきけない。第六騎牛帰家では、現世で何をやらなければならないのかと考えながら、牛を連れて家にかえる。もちろん正確な答えを得ることはできない。第忘牛存人で、牛はいなくなる。生きる意味が分かったような、分からないような、そんな曖昧な気持ちが残った状態で絶望に落ちる。第八人牛俱忘では大きな丸だけになる。仏教では、円は悟りを意味するものだ。生きる意味を追い求めていた自分自身に虚無を覚える。第九返本還源、「本」や「源」といういわゆるゼロに、「返」や「還」が表しているように立ち返る。わたしはこれを生まれる前と生まれた後の境界に立ち返ることであると解釈した。つまり「前世」と「現世」の境界である。ただここでも行き詰まる。自分の中で考えをいくら巡らせても、出うる答えはある一定のラインでとまってしまうからだ。最後に第十入鄽垂手。自分ひとりで考えを巡らせても答えはでないと悟った旅人は、市場に出て人と話す。なぜあんなに悩んでいたのだろうと思い、己の愚かさに気付き世俗に戻る。以上が私なりの考察である。何かはわからない「喪失感」は、自己を探求するのに一役買ったが、あくまでもその「きっかけ」に過ぎなかった。第十場面でもわかるように、旅人は自己探求の愚かさに気付き、考えることをやめている。では、どのようにすればその「きっかけ」をうまく利用することができるのか。カントのいう通り、すべての出来事が必然であるならば、今こうして悩んでいることにも意味がある。何かはわからない「喪失感」を仮定しない限り先には進めない。


記憶の持つ意味

前世から現世に生まれ変わる時に失われたものとして私が最初に思い浮かんだものは、「記憶」だった。私が思うに、人間の共通部分を取り除いたときに唯一残る特有のものは頭の中、すなわち「記憶」であると解釈した。「記憶」がその人の人格を構成していると述べても過言ではない。この考えに思い至った時、私は次のようなことを考えた。「人間は、実は脳みそしか存在しなくて、自分自身の体、目の前に見えているものすべて幻想なのではないか?」と。誰も、目の前にいる人間が本当に人間かどうかは殺してみないとわからない。ゲームの世界のように、0と1だけで構成されたデータの可能性だってある。だとしたらナイフで刺したとしても血というものはでないだろう。仮に血が出たとしても、そうプログラムされたものと考えることだってできる。さらに、その考えを裏付けるものとして宇宙の存在があると私は考える。この世界に、宇宙の始まりを自らの目で見た者は存在するだろうか?この問いに関しては誰もいないと断言することができるのは自明だろう。だいたい、なにもない点からビックバンが生じて宇宙が生成されたなんて考えは実にナンセンスな答えだ。私たちの想像の範疇を大幅に超えている。つまり何が言いたいのかというと、実はこの世界はバーチャルリアリティーなのではないかということだ。すなわち、かなり精巧にできたゲームなのではないかということである。この仮説を踏まえると色々つながってくる。まず、だれがこのゲームを作ったか。私は、人間よりはるかに高い知能を持った生物なのではないかと思う。以後、この創造者を「X」とおく。我々は今まで数多な実験をしてきた。その中にはクローン実験や遺伝子組み換え実験など、生物に関わるものもたくさんあった。だとしたら、我々自身も「X」のような高知能生命体に実験されていると考えてもおかしくはない。「X」からすれば宇宙なんて、人間がカブトムシを虫かごで飼っている感覚にすぎないだろう。この世界がバーチャルリアリティーであるという過程は、一見科学的な考え方のように思えるだろう。しかし、そうではない。「X」が、宇宙空間というゲームを作ったとしたら、この世界の存在を根拠づけるという意味で、「神」なのである。だとしたら、多くの進化論者(科学絶対主義)も創造論者の考えを理解することが可能になり、その逆もまたし然りである。さて、この世界がバーチャルリアリティーであると仮定したとき、「死」とは我々にどのような意味をもたらすだろうか?

死について


「死」。上記でも述べたが私たちが絶対に経験するものの一つが「死」である。多くの人にとって、死は恐ろしいものではないだろうか。それもそのはずだろう。死ぬこととは、だれも知らない未知の領域であるので、不安や恐怖が生じるのは当たり前である。「死」は、この世界において最大の喪失である。バーチャルリアリティーの世界でいえば、データの削除といったところだろうか。私の場合、死ぬことが怖いとは思はない。私という存在も「X」に生み出されたデータにすぎない。怖さというよりは「虚しさ」と形容したほうが近い。何者かによって作られたゲーム世界のなかで、私は日々レベリングしている。食べ物を毎日食べ、データを維持し、勉強や読書を通して自分のレベルをあげている。また、このゲームで築き上げた地位、名誉、自分を感化してくれた人達との関係もまたそうだ。「死」とは、これらのすべてを失うのである。このゲームの中では、これが繰り返されているだけなのだろう。そして来世になり、この「喪失感」だけが現世から受け継がれるのだ。そして上記にも述べたように、「喪失感」は人を動かす。ある意味、人間の無意識の中で、それは原動力になっていると捉えることも可能である。「X」がなぜ我々に「死」というプログラムを盛り込んだのか、少し見えてくるだろう。存在を無意味に感じさせる「死」にも、必ず意味はある。


死の持つ意味

「死」がもたらした最大の意味は、「死」が訪れる前に、自らの存在を永遠にこのゲームデータに刻むことに拍車をかけるものなのではないだろうか。多くの人間が死を恐れるのは、自分のデータがこの世界から削除されてしまうからである。ただ、必ず「死」は訪れる。どうしたら永遠にデータを残すことが可能だろうか。

結論

この答えこそが、自らのレゾンデートルなのである。私が導き出した答えは、何かを「信仰」し、そして誰かに「信仰」される側になれ、キリスト教を生み出したイエスや、科学という宗教を生み出したエジソンのように。人間である以上、「生」で始まり「死」で終わるのは不変の真理である。もちろん「前世の自分」を探求することは「現世の自分」に生きる意味のヒントを与えてくれるし、前世から受け継がれた「喪失感」は現世を生きる自分の原動力になる。たとえ、この世界がバーチャルリアリティーだとしても、ゲームのデータだとしても、いまここで自己理解について考えている自分の存在を否定することはできない。デカルトの「我思う、ゆえに我在り」とはこのことだろう。だが、必ず「死」は訪れる。「死」は生命の最大の発明とスティーブ・ジョブズは言っていたが全くその通りである。「生」によって「死」があるのではない。「死」がすべての事柄の起原になっているのである。

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