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#勇気の芸術17 「自分を話す」はけっこう温かかったりする、ご近所つきあいのようなクリエーション


『勇気の芸術』第2章ではコミュニケーションについて研究してきたことを備忘録だったり、詩だったりにしてツラツラとやってます。

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ときどきの詩 その六 
~自分を話す~


ほとんどの人はたぶん
見ず知らずの人に自分のことを話すなんてのは
恥ずかしかったり
自己主張の人だと思われたくなかったり


聞く人からすれば
エライひとの話なら聞ける
けどフツーの人の話なんか聞かなくてもいいわ、
私には関係ならないから時間の無駄よ、ぷいっ
なんてくらいの人が多いのかな


純粋な物話と
純度ある聞き手がいるここには
意外な人間の温かさと結びつきと
想像と創造がある
人の情熱や行動の基盤である
「やることがある」「やりたい」
この純粋な爆発を無目的に混ぜる

人が無償に無目的やりたいと思うこと
ソレが爆発する瞬間には
美しさがある


それはみんなが持ってる「芸術の出どころ」


自分自身の生きている物語を話すこと自体
芸術だとも


モノや音楽を生み出す人の事だけ指して
僕は芸術家とは呼ばない


自分をおもいっきり話す人ですらそうなんだ

すべての人が純粋に混じるができれば
すべての人が描けると大きな声でいいたい純度の高い聞き手が欲しい


「良い聞き手はなんですか?」と
いつも通りにハウツーで聞かれるのが、嫌だ
そんな人は多い

人の話を聞くときに
いつの間にか自分が取っている行動を自分で認めてみれば
あとは自由だ


あとは自由だ
じゃ、だれにも届かないらしい
そんなことを言うと、叱られる
叱られてもいいけど


自由にやるのは、だれだってこわいから
それは勇気がないとできないって
それには責任がたりないって

ほんとうはみんなわかってるから




みんなに感んじる気持ちがあって
それぞれの心の奥にある何かにぶち当たる

心が揺れる

同じモノをみても
だれかと同じ見方ということはないはずなんだけど


出会ったタイミングは人それぞれ
だから、みんな同じなんてことはない

そして、ソレを観たあとに
その人のナニカになって生活の中にはいっていく

これはもうさらにナニにナルカなんか分からない


観た人しかわからないし
観た人もわかってないかも


時間がたてば残っているモノも変わっていく
頭で把握したり統一したりしようとする方が


滑稽こっけい

観た人の数よりもっと無数の意味を持ち
価値も無限にが広がる
目の前のモノはたったひとつなのに

それじゃだめなのか?
と、ときどきテレビに聞いてみたくなる



観るってことすら創造のひとつで
観た人がそのそれを味わうことによって
それは無数の形で完成する

真の芸術のソレは
つくり手と受け手
芸術家たちによる純度の爆発の混じり合いなんだ


だからおそろしいのは、
観る人の「味わう」って感度がころされた
一人ひとりが自分のレンズでモノを観れなくなってしまった時代や文化

広告と芸術をまちがえて受け取りあってる時代や文化は

ちょっともう息くるしくないか

時代や文化の背景にこれが確かに在るのがコワい


大衆へ媚びた商業的なモノ
ただの上手な模倣を
芸術と呼び
それがこの世の一番と思わせるような文化と
それを鵜呑みにするしかできないことは

ちょっともう息がくるしくはないかな

ちょっともう
うち側から人が腐ってるようなニオイがする



人が話すときもそう
聞き手次第で、
いかようにもその人の存在が変貌していく
話し手の素直な爆発と
聞き手の感度の高い姿勢


全員が純度高く「自分を話す」こと「聞くこと」は
小さな芸術が生まれるそ瞬間の共有



誰もがいきいきと描ける世の中
一人ひとりが想いで話せると

きっと今よりももっと素敵なはず

みんなが自由を手に入れる
それは、みんなが勇気と責任を手に入れること



だれかが死んだり
誰かと誰かが「意味」を失っていがみ合ったり

そんなキツいことがあると
「僕らはみんなで生きてる」って
ときどき忘れちゃうんだけど
そうすると一人で悩んでしまう

うまくいかないなとか
なかなか元気にもどれないなとか
こころが揺れることがコワくなる

みんなでつくってるってことを忘れた僕は
僕を大きさでしか見れない

たくさん泣いて
たくさん忘れて
また思い出せば大丈夫でしょ

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