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「音」の「音楽化」(音楽の著作物の限界)

何をどう作れば「音楽」と言えるか。みたいなことを考えたことがあります。もちろんコンセプチュアルアートのように「これは音楽だ」という送り手、受け手の意思さえあれば音楽としてパッケージ化されて認識されていくのでしょうが、今回は何が「著作権法上の音楽」であるべきかを考えてみました。

音楽の著作物の判断にあたっては基本的に

①メロディー②リズム③ハーモニー

の組み合わせによって成り立つものとされているようです(法律上の理論ではなく、音楽の作り方の基本の要素という整理だと思います)するとこれらの要素を必ずしも用いないチャレンジングなジャンルは「音楽」ではないと評価されかねず、著作物の隙間として保護の対象にならないものも存在し得ます。

さてこれらを保護する方法も存在するべきだという議論も面白いのですが、こういった「例外」の保護の検討ではなく、もっと前の次元、すなわち「音楽」の定義がずっと不変であることを少し考えてみたいと思います。

「音楽」であるかどうかは能動的な作り手の技術の成果物として判断される場合と受けて側の「聴き方」の変化によってもたらされる場合があると思います。後者である受け手側の多数が音楽として認識するに至ったものを保護していないとするならばそれは法律が変わる契機といえるでしょう。音楽ジャンルが多様化していく中でアンビエントやノイズミュージック、ミニマルミュージックなどは

「聴くこと」が自発的、能動的な「作曲すること」や「演奏すること」よりもあらゆる面で先行して「音楽」の成立要件として立ち現れる。((佐々木敦 テクノイズマテリアリズム 青土社))

と言われるように「耳を使う事」に何よりも重点を置き、受け手側に作品を委ねる割合が非常に高いものだと感じています。そして同著では

実際に我々はつい昨日までそれを単なる耳障りな、気にも留めない、少し変わった「音」としか感じていなかったのに、今日になって突然、何の前触れもなく「音楽」として聴くのである(佐々木敦 テクノイズマテリアリズム 青土社)

と述べられており、大きく共感を覚えたのが印象的です。

僕にとっては正にアンビエントがそれにあたります。「音」の聞き方は自分の生活に密接して変化していっているとも感じました。

ここ数年座って勉強している時間が長く、本来聞いていた音楽に対してまず「歌詞」があるとそもそも集中できないこと気づき積極的に馴染みのない言語の音楽を聴くという手段をとっていました。ところが意味のわからない言語は聴き慣れてくるとなかなかに心地の良いリズムやメロディーとして「音」を楽しめるようになってきてしまうんです。そうすると意識が再び目の前の勉強からふと離れてしまいがちになりこれはあかんということになります。

そうなると次は歌詞がないものを聴こうと。具体的にはLofi HipHopやエキゾチカを好んで聴くことが多くなりました。確かに歌詞が入って来ずゆったりとした曲調で勉強によくなじみました。Lofi HIpHopがStadybeatsのタグで拡散されているのも納得できます。しかしやはり慣れてきてしまうと「リズム」がどうしても存在しているためふとノっている自分に気づくようになります。また勉強に集中できずこれはあかんということになります。

そしていよいよ「リズム」がないものを聴くようになってきました。アンビエントです。するとこれはこれは勉強に集中できるようになりました。ヒーリング、メディテイトのような概念を含んだりするアンビエントは音と音の間が多く思考の邪魔をしないどころか雑音を消すことで深く考え込むことをできるようになりました。細野さんがアンビエントは「自分の内」と向き合うためのツールといっていたことに大きく合点がいきました。

(これは勉強中に音楽を聞かないという選択肢を最後まで取らなかった僕の体験記です)

こういった体験から仕事や勉強にはBPMが存在しない音楽が良いと考えるようになるのですが、そもそも上記の通り音楽の定義は①メロディー②リズム③ハーモニーを用いたものであるところアンビエントは総じてリズムがなく著作物権の観点から「怪しい」位置にいると思いました。もちろん①〜③のいずれもを備えてる必要はなく、各要素を総合的に判断して創作性を見るのだと思いますがアンビエントは②がないどころか①③も十分に備えているものは少ないと思います。更にいわゆる自然音を用いた環境音楽はアイデア、もしくはありふれた表現と判断されかねず著作物性の肯定にあたって不利な事情が多いと思われます。

(アンビエントについては以前も触れたのですが、そこではこういったジャンルはアイデアの要素が高い割合を占めるという点に焦点を当てて書いたので今回は「音楽」の定義という側面から書いてみています)

前述の「音」を突然「音楽」として聴くようになる。という話に戻りますが、それ以降僕は「音」とそれに伴う「静けさ」に異常な心地よさを覚えて頻繁にアンビエントを聞くようになりました。すると自然音や生活音にも耳を傾けるようになり楽しめる「音」の概念が広がりました。またコロナ禍によって家でぼーっとする時間も増えアンビエントを聞く環境として相性が良かったことも相まっていたと思います。正に「音」から「音楽」へ耳が捉え方を変えた体験だと感じています。

個人的にリズム、メロディー、ハーモニーを含まないものも立派な音楽として受け取っていますが、単純な「音」を保護することはやはり文化の発展を阻害する側面の方が多いとは感じています。しかし今後大多数の受けて側が「音楽」として扱い始めたものを著作物として扱わないまま放置してしまうならばせっかく市民権を得はじめたジャンルが発展する事はないであろうことも想像に容易いと感じています。限界事例に近いものを一つ挙げると関ジャムでも話題になったSACHIKO Mのライブ映像が印象深いです。

SACHIKO M

確かにこれを保護しようとすると似たような音は世の中にたくさん飛び交っていそうですから萎縮効果の方が強く働いてしましそうです。一方でこの音を相当に長い時間使うならばそれはSACHIKO Mの創作的表現を借りているという印象が強くなるような気もします。逆に短いならばもはやSACHIKO Mの音だとは受け手側は気付かず単なる「音」以上の価値は付加されないでしょう。

そこで①一定の長さがあり、②音の変化が複数回以上存在している音であればリズム、メロディー、ハーモニーが極端に少ないものでも「音楽」の著作物として認めてもよいのではと考えています。そうすれば上記の音をがっつりつかうならば著作物の利用にあたるだろうし、それを潜脱して少しだけ利用しようとすれば逆にその価値を受け手に伝えられないというバランスが取れる気がしています。(ただ、無意味な長い音の羅列を多数作るような悪用をされてしまうと中々対処が難しそうです....結局悪用する側の事を想定すると動きづらいというジレンマ。音楽っぽくないのは今の自分の感覚から言っても同意できるものの、今後音楽として楽しめるようになった時にまた考えてみたいと思っています)

個人的にはコロナ禍によって「静けさ」に触れる機会が増えアンビエントのような「間」の多い音楽は今後流行っていくと感じています。つまり「音」の「音楽化」は加速していくと感じています。その中で作品が増え著作権法上の問題に発展していくものも増えるでしょう。そういった段階になったときに単に「著作物ではない」だとか「ありふれた表現」、「アイデア」に過ぎないといった主張、判断をされるのはなかなかに悲しい事ではないでしょうか。

「音楽」の定義は可変です。「作り手」の創作背景や「聴き手側」の感覚も踏まえつつ、柔軟に「音楽」を捉えて行きたいものです。



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