見出し画像

北海道の廃線跡探訪 第16回 広尾線(1/4)帯広~大正間


1.ごあいさつ

ご訪問ありがとうございます。

北海道の廃線跡探訪 第16回 広尾線の第1回です。

なお、これからの投稿予定路線などは、初回記事にありますので、そちらをご覧ください。

2.広尾線小史

広尾線は、1929(昭和4)年11月2日帯広~中札内間、翌年10月10日中札内~大樹間が開業、1932(昭和7)年11月5日には広尾まで全通した。
1961(昭和36)年から1975(昭和50)年の夏期には、広尾線史上唯一の優等列車、臨時急行「大平原」も運転されている。
1973年から始まった愛の国あいのくにから幸福へ」の一大ブームも、切符の売り上げには貢献したものの、1980(昭和55)年国鉄再建法により第二次特定地方交通線に指定、1987(昭和62)年2月2日全線が廃止された。
日高本線様似と結ぶ計画もあったが、実現していない。

3.帯広~愛国

1/5万地形図「帯広」昭和51年修正に加筆

高架となった根室本線帯広駅南口には、ホテルや市立図書館、商業施設などのビルが建ち並んでいる。
高架化前は、十勝鉄道帯広大通駅があったころの面影も残り、いかにも駅裏といった感じだったが、今ではまったく様変わりしている。

帯広駅南口 2012年9月撮影

広尾線は、根室本線としばらく並行、徐々に離れていく。路盤は高架下に続いているが、東大通から、光南緑地という公園になっている。

高架下から路盤が現れる 帯広方を望む 2012年9月撮影
東大通から帯広方を望む 2012年9月撮影

公園には遊歩道・噴水・公衆便所もあり、その名称板は駅名標を模し、街灯の基部には動輪、車止めにはポイント転轍器があしらわれるなど、鉄道をイメージさせるつくりになっている。

光南緑地の名称板 2012年9月撮影
光南緑地内の休憩スペース 2012年9月撮影

札内川手前の道道151号弥生通りまで続いている公園は、第3札内川橋梁へ上る築堤が崩されたため、次第に幅が広くなっている。
途中にあったはずの売買うりかりがわ川橋梁は、広尾線営業当時すでに流路が変わり、川自体なくなっていたが、この橋の跡もない。
道道近くだけは築堤が残され、その端には、あずまやが建っている。

道道151号近くには築堤が残る 中央が端部にある、あずまや 2012年9月撮影
道道151号から見た築堤端部 2012年9月撮影

23連ものガーダーを連ねていた第3札内川橋梁は、橋台・橋脚とも撤去されている。

第3札内川橋梁のあったあたり 依田方を望む 2012年9月撮影
第3札内川橋梁を渡る帯広行キハ22×2+キハ12(後追い) 1980年1月撮影

札内川を渡り幕別町に入った広尾線はほぼ直角に曲がり、札内川東岸に沿って南へと進路をとる。
路盤は対岸の道路からほんの少しヤブになっているほかは、農地に取り込まれて消えている。

依田よだは1957(昭和32)年12月設置された旅客専用駅だが、ホームだけで待合室すらないという、仮乗降場以下の設備だった。
南八線の道路から見ても、駅跡はおろか路盤の跡すらさだかではない。

南八線の道路から依田駅跡を望む 2012年9月撮影
1/5万地形図「帯広」昭和51年修正に加筆

依田を過ぎると再び帯広市となり、北愛国までも路盤はほとんどなくなっている。
1953(昭和28)年11月設置の北愛国は、北愛国会館の裏手にあったが、ここも痕跡はなく、かつての取付道路が残るだけだった。

北愛国駅跡を望む 右の北愛国会館の奥 2012年9月撮影
北愛国駅跡から愛国方を望む 2012年9月撮影

愛国までの路盤も、丘のふもとにわずかに残っている以外、農地となっているところが多い。

丘に沿って残る路盤跡(地形図上の写真撮影地点) 愛国方を望む 2012年9月撮影
同地点 北愛国方を望む 2012年9月撮影

4.愛国

愛国「愛の国から幸福ゆき」の切符で一躍有名となった。
廃駅となって30年以上経つ今でも訪れる人は多く、平日でも観光客が絶えない。

交通記念館となっている旧愛国駅舎 2023年10月撮影

駅舎ホームのほか、9600形19671号機も保存されている。状態はよいが、腐食したのか、キャブの屋根は鉄板で覆われていた。

9600形19671号機 2012年9月撮影

駅名標は復元したものと実物があり、実物は塗り直したときに字体が変わってしまったのがちょっと残念。

左は一応実物 2012年9月撮影

ほかにも駅のまわりには切符をかたどった記念碑?などがやたらに建っている。

記念碑? 2012年9月撮影

駅舎交通記念館となり、内部に広尾線の資料が展示されている。
外観はほぼ営業当時のままで、今の方が手入れもよさそうである。

旧愛国駅舎(交通記念館) 2012年9月撮影
旧駅舎(交通記念館)内部 2023年10月撮影

駅前の土産店では「愛国から幸福ゆき」乗車券愛国駅の入場券をセットにしたものを販売しており、日付は広尾線営業最終日
おそらく廃止後に何度も増刷しているのだろうが、地紋や字体も国鉄様式のままだった。

パウチ入りで売られている切符

近くにはヨ4353の車体も置かれている。

駅前に置かれているヨ4353の車体 2012年9月撮影

5.愛国~大正

1/5万地形図「大正」昭和49年修正に加筆

愛国からは路盤が未舗装道になっているところもあるが、丘に沿ったヤブになっているところが多い。

大正11号道路から大正方を望む 2013年5月撮影

草森川とその支流にはIビームの鉄橋が2か所残っていたが、十二号道路あたりから路盤は農地化され消えている。

大正11号と12号の間にある小鉄橋 2013年5月撮影

大正の手前の大正跨線橋で道道62号をくぐるが、路盤の跡はなく、愛国方は農地、大正方は宅地になっている。

開業時幸震といわれ、1944(昭和19)年4月改称された大正は、廃止後駅舎や構内が保存され、0系新幹線22形まで置かれていた。
しかし、「大正ふれあい広場」として再整備され、面影はほとんどなくなってしまった。

大正駅跡「大正ふれあい広場」 2023年10月撮影

記念碑的に短いホームがあるが、古枕木で土留めされた古い擁壁をみると、元の島式ホームの前後をカットして反対側を埋めているようにもみえる。
ホーム上にあった待合室を模したような休憩所は、2023年にはベンチだけになっていた。

大正駅のホーム跡 2012年9月撮影

駅名標は枠だけ利用しているようにみえるが、「たいしょう」と書かれた字体が達筆というかヘタというか、なんともいえないものになっている。
これはずっと変わらないから、仮に書いているのではなかろう。きちんとしたものにしない理由があるのだろうか。

休憩所はベンチだけになった 駅名標の字体が・・・ 2023年10月撮影

大正を出た路盤は道道62号から大正十九号道路まで未舗装道となっているが、そこから先は畑地になって消えているところが多くなる。

大正十九号道路から大正方を望む 2013年5月撮影
 

今回はここまでです。
おしまいまで読んでくださり、ありがとうございました。

次回は、いよいよ広尾線最大の〝名所〟幸福に向かいます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?