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書道の鑑賞はなぜ難しいのか。

書の展覧会はどうしてこんなに鑑賞することが難しいのか
今日は、このことについて語りたいと思います。

まず、前提として、書道の展覧会は大きく分けて3つあります。
1 公募展(書を勉強している方々が競い合う展覧会)
2 社中展(その会派に所属する人々が出品する展覧会)
3 美術館や博物館で開催される展覧会

みなさんがよく行く展覧会は3つのうちどれに当てはまるでしょうか。
実は多くの人が、知人や友人の作品が飾られているからという理由で、1や2の展覧会に行くのではないかと思われます。
しかし、行ってみると作品がたくさん飾ってあるものの、

「何をどう見て、何をすごいと感じ、何に感動すればいいのかわからない」

という状況に陥っているのではないでしょうか。これは鑑賞者の問題ではないのです。


1 公募展の場合

例えば1の公募展に行ったとします。
多くの作品が飾られていますが、作品以外に知ることができる情報は作家の名前、釈文ぐらいではないでしょうか(しかも釈文も途中で切れていることがしばしば)。しかも、作品が所狭しと飾られており、その作品を1つ1つじっくり楽しむような鑑賞空間としての余白も用意されていないのがほとんどです。

「空間が確保できていないと言っても、作品自体を見ることは可能なわけですから、作品自体を単純に見ればいいのでは?」
というご意見もありそうです。しかしここで問題が発生します。そうです。
現代人は書かれた文字や言葉が読めないのです。

「読めない」といっても段階があります。
・そもそもなんと書いているのかわからない(文字として認識できないくらい崩れている)
・文字だと判別できるし、知っている文字が羅列しているけど、書かれた言葉の意味がわからない。

このように、作品を見ても素材となる文字や言葉についての知識がないと作品をじっくり鑑賞することは難しくなります。

「文字や言葉については一旦無視して、字の形や線質を見ればいいのではないか」というご意見もありそうです。もちろんこれは可能でしょう。

字形や線質、紙面の構成を見て、お気に入りの作品を見つけることも1つの鑑賞のスタイルだと言えます。

しかし、このように言葉の意味などを知らなかった場合、鑑賞する観点は作品の造形に関するもの(字形、線質、紙面の構成等)に絞られてしまいます。文字や言葉を素材にしているにもかかわらず、その文字や言葉に注目することなく、鑑賞を終えてしまうことは書道の鑑賞態度として適切なのでしょうか。

2 視覚芸術の罠

書道は、絵画と同じように【視覚芸術】の1つという見方がされています。それに対して音楽は【時間芸術】とされています。

【時間芸術】の強みは、ライブ感です。
演者と鑑賞者が一体となってその芸術を楽しむことができます。また鑑賞者からの評価を逆転させることも可能です。
これは、ドラマ、演劇、文学にも同じことが言えます。最初は面白くなさそうだったのに、ラストに行くにつれてどんでん返しが続き、最終的にはハマってしまったという感じです。

【視覚芸術】は【時間芸術】と違い、すべての紙面を一瞬で鑑賞者にさらすことになります。
巻物の絵のように話が進むにつれて絵が現れるのではなく、作品を壁面に飾ることで、その作品の全体を鑑賞者は見渡すことが可能です。
したがって、時間芸術のようなどんでん返しが効かず、目に入った一瞬でその作品の価値を決めてしまいがちです。

実は、公募展の作品は、この一瞬で目に入ってきた作品の完成度を競っています。
ですから、公募展においては極論、題材にしている文字や言葉は読めなくていいということになります。
実際に作品を出品している人は、鑑賞者に作品を見てほしいとは思っていても、作品を読んでほしいと思っている人はいません。
最近、書に関してSNSやYOUTUBEで発信している人を見ても

「公募展に出品している人に書いてある内容を聞くのはご法度です」

なんて言っている人もいます。つまり、出品している人でさえ内容を吟味し理解している人はあまりいない、ということです。
だから、作家は在廊もしないわけです。逆に聞かれたら困るのです。

「え?じゃあどうやって作品に書く素材を決めているの?」と思われますよね。
多くの書家は「書いたときにかっこよく配置できる言葉を選んでいる」というのが本音です。墨場必携や、かっこよく決まる漢字を使って自作の漢詩や歌を書く人もいます。いずれにしても、書かれている内容よりも、どう書いているかに注力するのが公募展の作品だと思ってください。

そうなると書道の初学者にとって公募展の作品の鑑賞がいかに困難かがわかると思います。

・情報は作品と作者、釈文のみ
・読めなくてもいいと割り切った作品

この情報だけで、どのように書を見ればよいのでしょうか…。
書道をある程度やっている方だったら「これは〇〇の書風だな」「この変体仮名を使ったのか」「この掠れが美しいな」などと評することができるかもしれません。
しかし、それでは書の一側面(造形面)しか触れることができず、書の奥深さを理解するには至らないと思われます。

社中展はどうでしょうか。社中展とは、その社中(会派のようなもの)に所属する人たちが出品する展覧会です。社中展の大きな特徴は、「社中の書風」で書かれた作品が並べられているというところです。
「現在社中のトップにいる先生の書風」を弟子たちが真似て書くので、同じような書風の作品が並びます。したがって、書の世界に慣れてくると「あ、この書家はあの社中に所属しているんだな」とすぐに判別できるようになってきます。
社中展はすでに書風が決まっていますので、書く内容について吟味できる環境にあるかもしれません。しかし、社中展は同じ書風で書かれています。さまざまな書風に出会い、刺激をもらうチャンスは期待できません。

長い文章にもかかわらずここまで読んでいただきありがとうございます。
まとめると、

①読めないにもかかわらず、作品について説明が乏しい
②作者に聞いてみたいけど、在廊していない
③一瞬で全体が見て、一瞬で価値判断し終わってしまう

このような理由から、
・書芸術を見てもあまりわからない(読めないし内容もわからない)
・書芸術が一般にひろまっていかない(在廊しないから誰が書いているのかも不明)
・書芸術の裏側(作品だけではわからないこと)まで見ようとしない(造形のみ)

という傾向が生まれてくるのだと思います。
(これで本当に書の面白みが一般の方に伝わると思っているのだろうか)

私たちのような書に関係する人々がやらなければならないことは、このような状況を認識し、改めて書の奥深さを広めていくことでしょう。

3 初学者にはおすすめできる展覧会はこれしかない

そして、書を始めた人たちに、私がおすすめする展覧会は
美術館や博物館などのミュージアムの展覧会です。

公募展や社中展はいわば成果発表会の傾向が強いです。
しかし、ミュージアムの展覧会はテーマがあり、学芸員さんたちが作り上げた世界観があり、作品についての解説も十分にあります。順路を設け、「この順番で見てもらえたらこの作品群の美しさに気づけるはずだ!」「これで会場出たら書の余韻に浸ってもらえるだろう」という願いのもと展覧会が構成されています。
書跡のミュージアムは全国各地に点在しています。書家の記念館も各所にあります。書を通じて作家を知り、作家を知って時代を知り、時代を理解して作家や作品にもう一度思いを馳せる…。作品を見るだけでは納得できなかった作家の思いを理解できた時、それは深い鑑賞体験となり、自分にとって重要な体験になるはずです。

いかがでしたでしょうか。書の鑑賞は難しいとよく言われます。
しかし、その原因は書をやる側の問題でもあるのです。私も書をやる人間としてさらに発信を続けたいと思います。

書の世界は複雑で、さまざまな分野につながっています。
‐書の奥深さ、すべての人に‐
&書【andsyo】でした。

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