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人間関係の距離感

 他者との距離感について、あぁ、これはその通りだなと納得しているフレーズがある。それは「その人が一番よく見える位置にいること」だ。どんな美人でも、近くに寄ればお化粧で隠そうとしているシミやあざが見える。そのシミやあざが、あなたにとってすごく嫌いなものだとしたら、その近さで彼女と接するのは限界があるように思える。でも、少し距離を取れば、また美しく見えて、尊敬して接することができるかもしれない。アドラー心理学にも通じる考えであるが、人間関係の不和の原因は、距離感を見誤った”あなた”にあるとこのフレーズは伝えようとしている。

 思い返せば、生を得てから三十数年、人間関係の距離感を見誤ってばかりいる。きっと生きている人間はすべて息苦しさの中で生きているとは思うし、私だって時として「あなたはずるい」、「うらやましい」と言われるのだから、周囲の人間に適度に不愉快な存在なのだと思う。無自覚の時もあれば、わざとの時もある。

 前置きはさておき、私は距離を見誤った。学生時代の友人と出かける約束をしていたのだが、友人が約束していない人を呼んでいたのだ。あるあると言えば、あるあるな話だが、初めてのことだったので共通の友人にこの話をしたところ、昔からこの手のことがあって、迷惑を感じていた友人たちがいたそうだ。私はそのころ自分のことで大忙しだったので、誘いは基本断っていたり、向こうも誘えなかったのではないかと、共通の友人は話してくれた。

ちょ、それ、ま?

 自分の知らなかった友人の一面が出てきて驚いたが、友達呼んじゃう友人からの誘いはその後も続く。どうも渋谷のセンター街でウェイウェイしていそうである雰囲気を感じさせるが、友達呼んじゃう友人は渋谷のセンター街にはいない。こちらも予定はたくさんあり忙しいので、ごめんなさいをしたのだけれど、ちょっと距離感を考えてしまった。

 距離感の取り方の難しいのは、一個気に入らないところが見えたときに、全部切るか、部分的に切るかである。個人的に思うのだけれど、その人との人間関係を全部切る前に、相手に、あなたの行動で自分が不快に感じているということを伝えたか、というのが議論でよく出てくる。ヤフーニュースで離婚しなかった家庭が夫婦でよく話し合ったという。離婚してしまった家庭は話し合いの場を持とうとしたけれど、相手が話し合いを拒否する、あるいは話し合ったと勘違いしているなと思う。話し合いまで持ち込めない関係性はゆるく、ふわっと付き合うしかない。
 
 私は周囲にどうやら人間関係リセット癖とみられているようで。十代から今まで学業、アルバイト、自分の勉強、仕事、恋と目まぐるしく生きてきた。私が生まれ育った家庭は私の夢ややりたいことを支援してくれるタイプではなかったので、自分でなんとかするしかなかった。周囲の友達が、親が用意したレールの上を歩いている横で、私は自分でレールを作り、列車ぽいのを準備し走っていた。周囲はへんてこだと笑うが、当時の私にはそれしか選択肢がなかった。もっと母や父へ自分の思いを言えばよかったのだけれど、できなかったのね。親なのに否定ばかりされるし、どうするの?と返されることばかりで。
 本来親が作ってくれるはずのお金や土台を自分で作ろうとすると、自分から質問をしにあっちこっち行かなくてはいけない。新しい出会いの中で信頼を得るためには多少その人の下で勉強もしなければいけない。ほかの子に「貧しい」であることをばれないように行うためには、集中的にそれを実施する必要があるのだが、その間私は友人との付き合いは消える。だから、友人は人間関係が切れたと思っている。
 忙しい中でも会いたいとは思わせない友人の人間ぶりが問題なのか、私の生活がハチャメチャなのか。でも、正直ずっと忙しい。付き合う人は選びたいし、やりたいことはやりたい。その中で、今はいいかなと思う人間関係がある。特にネガティブな人とか。一見すると私より幸せそうなのに、否定的でネガティブな人とは一緒にいたくない。ただでさえ忙しいのに、そんなものに惑わされたくない。
 それでも、気づいたら安全な場所がいくつかできていた。自分のことばかりでも、私が私であるために安全な場所が今いくつかある。
 知恵が知識を呼び、経験を作る。経験はお金になり、お金は自由を買ってくれた。自由は私に選択肢を与え、選ぶをさせる。昔も選択肢があったけれど、私が欲しかった選択肢が自分の手元にあるのがうれしい。

 

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