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ワンネスの諸段階(その1)

さしあたってのワンネスとは、こういうことのようです。

認識対象と認識主体は、「認識する」ということにおいて不可分のものである

これはどういうことか。

例えば、今、自分が目の前のマグカップを見ているとします。

その事態に関して、通常は、マグカップを「認識対象」として、それを肉眼が捉えて、そしてその視覚情報が脳内で処理されることによって、「今、自分が目の前のマグカップを見ている」という認識が成立する、みたいにして捉えます。

(これは英語でいう「perception」、つまり「知覚」のことですが、この場合、日本語ではこれは「認識」に含まれるため、ここでは「認識」とします)

ここで、肉眼は認識主体ではない、ということに、注意が必要かもしれません。

肉眼はあくまでも、感覚器官であり、肉眼自体が認識をしているわけではありません。

これは、「カメラはそれが撮影した写真を認識しているわけではない」、というのと同様です。

カメラが撮影した写真を認識しているのは、そのカメラ自体ではなく、そのカメラを操作している人ですね。

(ここでは、いわゆる「画像認識」は、心の作用としての認識作用には含めずに論じています。というのは、例えば「画像認識技術」がおこなっていることは、言ってみれば「認識作用のシミュレーション」のようなものであり、認識作用そのものではないからです)

例えばそのように、肉眼が捕捉した情報を認識している「何か」があるわけです。

それは、脳内の視覚野でもありません。

それはあくまでも、肉眼を通して得られた情報を処理しているだけであり、だからといって脳の視覚野がそれらの情報を認識しているわけではありません。

これは、いわゆる「クオリア」の問題ともかぶってきますが、では、そうした視覚情報を認識している主体とは、いったいそもそもどこにあるのでしょうか。

ここで話は、生理学から霊性へと飛びますが。

結局のところこれは、「「私」とは何か」ということでもあるからです。

繰り返しますと、まず、脳の視覚野自体が何かを認識しているわけではなく、それはただ「情報処理」をしているだけです。

では、その、処理された情報を認識しているのは?

それは「脳のもっと深いところ」の何かなのでしょうか。

あるいは、肉体の「外」に広がるとされているオーラ、あるいはチャクラなのでしょうか?

認識主体とはどこにあるのでしょうか?

それは認識主体でしょうか?


で、こういう話とは別に、「私」「あるいは「自分」という感覚自体は、厳然としてあるわけですよ。

例えばですが、自分の肉体はつねると痛いですが、目の前のマグカップが割れたとしても、自分が骨折したような痛みを感じるわけではありませんね。

ということは、ここには明らかに、「自分」と「自分以外」とを区別している働きがある、ということです。

もし、その働きがうまく機能していなかったとしたら、マグカップが割れたときに、自分は、あたかも肉体が物理的に傷ついたかのような痛みを感じるかもしれませんからね。

つまりここには、「自分」という漠然とした感覚がある、ということです。

そしてその「自分」という感覚は、肉体と「ほぼ一致」しています。

「完全に一致」ではなく「ほぼ一致」としたのは、例えば「幻肢」という現象があるように、これは完全に一致しているわけではないからです。

幻肢痛 - 脳科学辞典 (neuroinf.jp)

私は別にオーラは見えませんが、これはおそらくですが、肉体を失ってもオーラのような「エネルギー的身体」はあるから、なのではないかという気がします。

ですから、自分が自分の肉体だと感じているのは、肉体そのものはもちろんですが、それだけではなく、エーテル体とかアストラル体とかの、オーラ体も含めて「自分」と捉えているようです。

結局のところ、この「幻肢」をもたらしている感覚の方が、おそらくですが幽体離脱とかとも関係しているのかもしれませんしね。

つまり、自分が「自分だ」と感じているのは、幽体だからこそ、幽体離脱をしたときに、自分が自分の肉体を見下ろしている体験などをするわけですから。

あの時に、その逆に、例えばですが、「自分は肉体の位置にいたまま、自分の幽体が肉体を離れて部屋の天井とかをふわふわと漂っていて、肉体であるこちらを見下ろしているのを感じた」みたいな体験談は、私が知っている限りでは聞いたことがないので。

しかし、もし肉体を脱ぎ捨てることができるのであれば、おそらくですが、エーテル体、アストラル体なども、肉体同様、脱ぎ捨てることが可能なのかもですね。

ま、それはともかく、自分は肉体なのか幽体なのか、ということに関しては、自分は肉体ではなく幽体である、ということは、言えるのかもしれません。

ところが、幽体より「次元が高い」ものとして、霊体というのがありますが、こうなると、自分は幽体なのか霊体なのか、という問いが生じて、それに対しては、自分は幽体ではなく霊体である、ということになるのかもしれませんが。

結局のところ、もし霊体より「高い」体が想定されたとして、それを仮に「A体」としますと、自分は霊体なのか「A体」なのか、という問いに関しては、自分は霊性ではなく「A体」である、ということになるのかもしれませんね。

ま、結局のところこれは、「無限遡行」というものの形をとっていることになるわけです。

というのは、「A体」というものを想定したとして、では次は、「A体」より「高次の体」としての「B体」が想定され、自分は「A体」なのか「B体」なのか、という問いに関しては、自分は「A体」ではなく「B体」である、ということになり、次は「C体」というものが想定され(以下同文)、だからです。

無限後退 - Wikipedia

ここの、「ホムンクルスの誤謬」というところが、まさに私がここで論じていることの、物理学的表現になっていますね。

これ、記述が物理学、というか生理学なのかもですが、そのため、ビジュアルにわかりやすいイラストが描かれていますが、結局のところこれは、「「私」を見ている私」」の無限遡行と同じことです。

つまり、「「「「私」を見ている私」を見ている私」を見ている私」を見ている私」……というものですね。

で、先のwikiを見たら、なにやら「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」というものがあるようです。

ミュンヒハウゼンのトリレンマ - Wikipedia

この中では「知識・論理などの確実な根拠が得られることはない」ということに関して、根拠づけの形式が3つに分類されています。

「無限背進」と「思考停止」と「循環論法」ですね。

2つ目のものは、wikiでは「ナマの事実」となっていますが、これは「思考停止」の方が的確かもしれません。

神学では神のことを「第一原因」としますが、ただ思考の中だけの推論だと、これは、この「ナマの事実」と同じことになってしまいます。

これは、上に挙げられている根拠づけはすべて、水平的な方向であるのに対して、神が第一原因であるというのは、垂直方向の話であり、両者を混同すると大変ややこしいことになるようです。

さて、無限遡行(無限後退、無限背進)は、時空の外まで含めると、実は循環論法になっています。

これは、「「私」を見ている私」という感覚を実際に体験してみて感じたことですが、例えばですが、自分の身体をさらに包み込むようにして意識してみます。

そうすると、その包み込む意識をさらに包み込むような意識が想定される、というようにして無限遡行していきます。

これ、ある段階からはトレースが不可能になるんですが、そうすると一瞬意識が飛んで、ふと、「ただ今ここにいる自分」という感覚に戻ってくるんですね。

つまり、無限遡行は循環論法となっている、ということです。

「ナマの事実」は、思考プロセス自体が停止します。

ですから両者は、動きと静止の関係でもあります。

そして「動き」には、直線的なものと円環的なものとがある、というように細分化されるのでしょう。

静止が意外に重要なのは、ここにおいて意識の転換がなされるからです。

先の、水平から垂直への転換もまた、いったん静止することにより転換がなされます。

というわけで、この動画ですかね。

パパジ、私に『私』と会わせて下さい! (youtube.com)

パパジに限らず、いろいろな人が、「静止」を強調するのは、このことによって意識が水平性から垂直性へと転換するから、なのでしょう。

その時、先の女性は、自分はすでに「私」であった、という単純な事実に気が付いた、というわけです。

これがどうしてもうまくいかなかった例としては、これが挙げられるかもしれません。

ムージ、修練なし 1/3 ~ 存在するための修練はない (youtube.com)

ここでの私の言い方でいうと、ムージはおそらく、いくら水平的思考を極めても「無駄」だ、と伝えようとしているのでしょうけど、言葉で伝える限り、それは言葉によって解釈されますね。

先のパパジのアプローチは、ただし、現代人にはかなり困難なことになります。

これは、座禅をしたことのある人は必ず直面する「雑念」というものがありますね。

また、あのように「今ここ」にあろうとすると、途端に不安になったり怖くなったり罪悪感に圧倒されそうになったり、過去の「罪」がいきなり自分に襲い掛かってきたり、1秒たりともじっとしていられない焦燥感とか、etc, etc,,,です。

ですから、ミュンヒハウゼンのトリレンマが言っていることは、言葉自体によってはたどり着くことができないところに関して、間接的に暗示している、つまり「月を指し示す指」となっている、というわけです。

月を指す指|お経や仏教書を読む時に注意している事があれば教えてください。 (kosonji.com)

というのは、言葉による推論は、必ずあの3つのいずれかの形をとるため、決してその求めているところにたどり着くことができない、ということだからです。

つまり、ミュンヒハウゼンのトリレンマにおける「隠された意味」としては、「真に根拠を求めるのであれば、言葉によって求めるのではない方向が必要だ」、ということですからね。

というところで、かなり長くなったので、いったんここで切りますね。

ではでは~。

ワンネスの諸段階(その2)|ふう (note.com) に続きます。





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