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「PLUTO」のエプシロンは、何故 「MONSTER」のヨハンにそっくりなのか                       

*ネタバレの内容を含みます

掲載した画像は、すべて浦沢直樹作「MONSTER」「PLUTO」です。

「PLUTO」のエプシロンが「MONSTER」のヨハンと似ていることについて考えてみたいと思います。


そっくりで真逆な二人


浦沢直樹先生の「PLUTO」のエプシロンが「MONSTER」のヨハンと似ていることは、連載時から指摘されていました。特に、「MONSTER」最終巻のクライマックス、ルーエンハイムの惨劇の最中にテンマの前に姿を現すシーンのヨハンと、「PLUTO」でヘラクレスの前に現われるエプシロンは、そっくりうりふたつです。加えて二人とも黒のタートルネックの服を着ています。(二人ともこれが定番スタイル、ユニフォームのようなものです。)
 
しかし二人の性格は、真逆です。


二人の登場シーンには、このようなものもあります。

エプシロン・光  ヨハン・闇の登場シーン

 この登場シーンが象徴的に表しているようにヨハンは「闇」で、エプシロンは「光」です。ヨハンは闇の中に生きる冷酷な殺人鬼で、エプシロンは光子エネルギー・光のエネルギーで動く徹底的な平和主義者です。
 
 そして、エプシロンの髪型は、ヨハンの双子の妹ニナとそっくりです。
 

エプシンンとニナ 髪型に注目

 
何故、浦沢先生はこの二人、いや三人をそっくりにしたのでしょう。

「MONSTER」のラストの意味

まずは「ヨハンの最後」について考えてみたいと思います。
「MONSTER」は、「空になったヨハンのベッド」で終わっています。

「MONSTER」のラスト 
空になったヨハンのベッド


 このラストについては、色々な意見があるようです。「ヨハンは自殺した」「怪物から人間になった」「母親の所へ行った」等々。
 
 最後のコマの「空のベッド」は、第1巻のヨハンが逃走した後の「空のベッド」の再現なのではないでしょうか。
 
 第1巻で病院長達が殺され、ヨハンとニナはいなくなります。失踪したヨハンの「空のベッド」の前でテンマが「なんなんだ!? 一体何が起きたんだ!?」と青ざめているシーン。「MONSTER」の物語はここから本格的に始まります。
 そして単行本18巻にわたる長い物語は、再びヨハンの「空のベッド」のシーンで終わります。
 
物語の始まりと終わりを図式化すると次のようになります。
 
第1巻 
・ヨハンが頭を撃たれて瀕死の重体になる
→テンマが、手術でヨハンの命を救う
→テンマが、寝ているヨハンに「病院長」について語る
→ヨハンがベッドを抜け出して「病院長」達を殺害する。
 
最終巻 
・ヨハンが再び頭を打たれ瀕死の重体になる
→テンマが再び瀕死のヨハンを救う
→ヨハンがテンマに「母親の思い出」を語る。
→再びヨハンがベッドを抜け出し(「母親」を殺す)
 
最初は「テンマが話した院長」が殺され、最後は「ヨハンが話した母親」が殺されるわけです。( )の中が暗示されて終わっているという事なのではないでしょうか。
 
私たちは物語の最後まで読んできて、1巻の「空のベッド」の前に立ったテンマと同じ状態に置かれるわけです。「なんなんだ!? 一体何が起きたんだ!?」                                 

第1巻の「ヨハンの空のベッド」とテンマ
ラストの「ヨハンの空のベッド」

                                     では何故ヨハンは、自分の母親を殺しに行ったのでしょうか。

本当の怪物は誰


最終章のタイトルにある「本当の怪物」とは、誰のことを指しているのでしょうか。
最終章の初めで母親がテンマに、彼女の夫がボナパルタによって殺された事を話し始めます。「私はあの男を決して許さない」
「許さない」と言う母親は、「手をはなさないで・・手を・・」と言いながら自分の手を見つめて「本当の怪物は・・誰・・?」とつぶやきます。これが最終章の始まりの部分です。

 そして最終章の終わりで、ヨハンが「Dr.テンマ・・あなただけに聞いてほしいことがある」「あの怪物が僕の前に現われた・・」と語り出します。ボナパルタが、ニナかヨハンか「どちらかを連れて行く。」と母親に選択を迫った時の思い出です。
                                    「はなさないで・・」「母さん・・」「手を・・」「はなさないで・・」必死で訴える子供の見上げた瞳に映る母親の姿が描かれていますが、とても恐ろしげな風貌をしています。他のシーンではいつも美しく優しそうに描かれている母親の様子とは、まるで違います。

「私はあの男を決して許さない。私の中でどんどん大きくなっていく子供達が、必ずあの男に罰を下す」と語る母親は、「復讐の手段」として子供を引き渡すことを決断したのでしょう。
「こっち・・ いえ・・こっち」とニナを引き渡す母親。「やだあああ!!」と叫ぶニナの声が大きく響きます。


ここまで話して、ヨハンはテンマに尋ねます。「母さんは僕を助けようとしたの・・?僕と妹を間違えたの?」「どっち・・?」「いらなかったのは、どっち・・?」

ヨハンが尋ねているのは「いらなかったの?それとも、そうじゃないの?」ではありません。「いらなかったのはどっち?」です。ヨハンにとって、母親が自分達のどちらかを「いらなかった」のは「明白な事実」なのです。現実に一人をボナパルタ達に引き渡しているのですから。彼の質問・関心が「どっち?」にあるのだとしても、それ以前に「はなさないで、お母さん」と言っている子供を「いらない」「引き渡す」「復讐の手段とする」という点で、ヨハンにとっては母親は「怪物」なのではないでしょうか。「あの怪物がぼくの前に現われた・・・」という怪物は、ヨハンにとって母親だったのでしょう。

その後、ヨハンは帰って来たニナと「二人で生きていかなくちゃ」という状態になります。ヨハンは母親と決別したのです。
 
 さて、テンマと一緒にベンチに座りながら、「あの子達の名前はね・・」と語っている母親の姿を背後から捉えて、下の部分に大きく「最終章 本当の怪物」とタイトルが出ます。


 
 「怪物」であるヨハンを産み出した母親こそが「本当の怪物」なのではないでしょうか。
 
 テンマと話している母親のにこやかで穏やかな雰囲気に騙されてはいけません。優しくて親切そうな人が実は・・・!!というのは、浦沢先生のお得意な展開なのですから。
 
 14巻で、廃墟となった「赤いバラの屋敷」に辿り着いたヨハンが、母親の肖像画を燃やしてしまうシーンは「母親殺し」の予告だったのでしょう。
 あの時ヨハンは、肖像画の母親に向かって話しかけてから「全てを炎の中に・・・」と火を放ちます。母親の肖像画が燃やされていく様子は、母親自身が焼き殺されていくかのようです。

 ヨハンは火を放つ直前に何故か唐突に「外はいい天気ですよ。母さん。」と話しかけています。この言葉は、浦沢先生が仕掛けていた伏線、予兆なのではないでしょうか。というのも、ラストの最終章では繰り返し、明るい日差しが強調されて「外はいい天気」な様子が描かれているからです。

 テンマと母親が話している場面では明るい木漏れ日が。テンマがヨハンを見舞いに行った病室では、カーテン越しに明るい光が差し込んでいます。やはり「外はいい天気」なのです。

 最終章のあの明るい日射しは、穏やかな物語の終わりを示しているのではなく、むしろ全く逆なのではないでしょうか。「外はいい天気」の日に、再びヨハンは・・・。「怪物」が「本当の怪物」を倒しに行ったのではないでしょうか

 右上の4コマは、14巻の赤いバラの屋敷の廃墟で、「外はいい天気ですよ、母さん・・」と言いながら、母親の肖像画を燃やすヨハンです。右下の3コマは最終話の直前で「いい天気・・」と言いながらテンマと話す母親です。
 ラストのコマの病室も、日射しが差し込んで「いい天気」なのですが、とても不穏な雰囲気です。
(画像をコラージュしてみたら、4コマ目の炎と5コマ目の木漏れ日がオーバーラップしていました。まるで、14巻のシーンと最終話の直前のシーンがつながっているかのようです。)

ヨハンの苦悩


 ヨハンは養父母の殺害を繰り返し、更にチャペックを殺し、ボナパルタを殺しています。(実際に手を下しているかは別にして)
 「親殺し」を重ねているわけです。
ヨハンにとって、最期に「本当の怪物」である母親を殺すのは必然だったのではないでしょうか。
 
 小さな子供にとっては「親が世界の全て」のようなものです。母親は、ヨハン達を憎悪の中で育み、復讐の手段としました。ボナパルタ、チャペック、511キンダーハイムの職員達は、ヨハン達の「名前・存在」「人格・心」を否定し怪物化させました。
 
 それがヨハンにとっての「親=世界」だとすれば、ヨハンにとって世界は「生きるに値する場所」なのでしょうか。
 そのような世界に住む人々は、ヨハンにとって「生きるに値する存在」なのでしょうか。そして自分自身を「生きる価値がある存在」だと思えるのでしょうか。
 
 テンマは「ヨハンは人間すべてをあざ笑っているんだ。」と言いました。そのような人間は幸福なのでしょうか。
 ニナはヨハンについて「もっともっと恐ろしい何か・・・彼は悲しみの淵で、もがき苦しんでいるのよ!!」と叫んでいます。「彼は自分を破壊するわ」とも言っています。
 
 「MONSTER」の最終章は、主要な登場人物達にとって、これ以上無いと言えるほどの「ハッピーエンド」な展開となっています。しかし、ヨハンにとっては決してそうではなかったのです。

何故ヨハンだけ怪物となったのか 


 何故ニナは、ヨハンのような怪物とはならなかったのでしょうか。
ボナパルタは赤い屋敷の惨劇の後、ニナに「今、見たことはみんな忘れるんだ。」「怪物になんかなっちゃいけない」と言いました。まず、この言葉がニナの怪物化を防いだのでしょう。
 
 一方ヨハンは、ニナと母親が不在の間「なまえのないかいぶつ」という絵本を一人で繰り返し読んでいたようです。ボナパルタが子供達を「怪物」にするための手段の1つです。そしてヨハンは、帰ってきたニナに赤いバラの屋敷での経験について話すようにせがみました。(ニナはボナパルタの「怪物になんかなっちゃいけない」云々という言葉は伝えなかったようです。)
 
 赤いバラの屋敷での惨劇を体験したのはニナでしたが、ヨハンはニナから繰り返しその出来事の様子を話すように促します。ニナは「あたしは話した。何日も何日も」「ヨハンは自分の体験だと思い込んで・・あたしのせいでヨハンは・・」と言っています。ヨハンがニナの記憶を自分の記憶とした一方、ニナはその記憶を忘却していました。
 
 ニナが怪物化せずに、ヨハンだけ怪物化したのは、兄ヨハンが妹ニナの「闇」を背負ったという事ではないでしょうか。ヨハンのニナに対する「君は僕で 僕は君」という言葉は、実に象徴的です。
 
 二人が孤児となって荒野を流離っている間、ヨハンがニナの親代わりでした。ヨハンは「怪物」でしたが、妹ニナに対しては怪物ではなく「親・保護者」でした。彼にとって妹は、「復讐の手段」ではなく「引き渡す」存在でもありませんでした。二人だけで生き抜こうとしたのです。

ヨハンとニナと、エプシロン

 エプシロンは徹底的な平和主義者です。第39次中央アジア紛争では徴兵拒否し、プルートゥに対しても徹底的に戦いを避け、最後まで相手を倒さずに戦いを止めるように説得を続けました。自分の持っている能力で相手を倒すこと出来るのにも拘わらず。
 
彼はどうにかして憎悪の連鎖を断ち切ろうとします。そしてヨハンの妹ニナも、憎しみの連鎖を断ち切ろうとして奮闘しました。
 憎悪の連鎖の中で生まれ、自分も憎悪の連鎖を産み出し続けているヨハンとは対照的です。
 
 ニナが、赤い屋敷に連れられて行って42人の人々の殺害シーンを目撃するショッキングなシーンは、エプシロンが経験したロボットの残骸を処理するように命じられるシーンと似ています。
 

ニナは家族で住んでいた部屋から「階段を引きずられるように連れ去られ」行き着いた赤いバラの屋敷で惨劇を目撃させられます。
 エプシロンは、兵士に案内されて「階段を降りた」先で大量のロボットの残骸を目撃し、処理することを命じられます。


エプシロンが降って行った階段ニナが引きずられた階段


 ヨハンとニナは自分達自身が孤児でした。それとは対象的にエプシロンは戦災孤児を引き取って育てています。

 手塚先生の「地上最大のロボット」では、エプシロンがいるのは「保育園」なのですが、浦沢先生は「戦災孤児のための施設」に改変しました。 その「改変」によって、エプシロンはヨハン達とは正反対の立場にいる事となったわけです。

 赤いバラの屋敷の経験はニナとヨハンにとって衝撃的な経験であり、同様に第39次中央アジア紛争はエプシロンにとって悲惨な経験でした。しかし両者には大きな違いをもたらしました。ヨハン達は孤児となり、その上ヨハンは「怪物」となりました。一方エプシロンは、「大事なもの」として子供達・戦災孤児達を見出したのです。 

 エプシロンが最初に登場した際、彼はヘラクレスとの会話の最後に言います。「断ち切らなければならない!憎しみの連鎖を・・」
 次にゲジヒトと会った際には、「このままではまた戦争が始まる。二度と戦争をやってはいけない。」と語ります。

 プルートゥとの最後の対決の際も、自分が勝てるのにも拘わらず相手を倒そうとせず、「もう やめよう・・君の意志で・・やめるんだ・・」と促します。そして結局倒されてしまいます。 エプシロンは憎しみの連鎖を断ち切ろうと最後の最後まで奮闘します。 

エプシロンと本当の怪物

 エプシロンが、最後に自分の両手を切り離してワシリー達を爆風から守り、死んだ後も「右手」を差し出して「誰か・・誰か・・僕のかわりに・・僕のかわりに地球を」と語りかける姿は、「MONSTER」の最終章に出て来る「母親の姿」と対照的です。あの時母親が泣き叫ぶニナを差し出したのも「右手」でした。 

右手を差し出すエプシロンと、右手で娘を差し出す母親

 
 ヨハンとニナの母親は「手をはなさないで」と叫ぶ子供達のうちの一人から「手をはなして」引き渡してしまいました。復讐の手段として。
 エプシロンは「自分の両手を切り離して」ワシリーたちを守りました。そして死んだ後も姿を現して「手を差し出して」言うのです。「僕のかわりに地球を・・」と。

プルートゥ/サハドとエプシロン/ヨハン・ニナ


 もう一つ興味深いのは、プルートゥの中にいるサハドの存在です。サハドは、鉄腕アトム「地上最大のロボット」には登場しない、浦沢先生「PLUTO」のオリジナルキャラです。
 そして、このサハドはヨハン的な存在だと言えます。自分を造った父親アブラー博士/ゴジに愛されることなく、復讐の手段とされているのです。
 
 ウランは、プルートゥ/サハドの描いた花の絵を見て感動し、彼の「枯れた花を再び咲かせることの出来る能力」を目撃して「世界中をお花畑にしちゃうの。おじさんはそのために生まれたんだよ。」と言います。実際にサハドは、本来は砂漠を花畑にするために造られたロボットなのです。

 手塚先生の「地上最大のロボット」のプルートゥには、このような設定はありません。浦沢先生のオリジナルのアイデアです。実はここで、ヨハンとプルートゥ/サハドの繋がりが出て来るのです。
 
 「MONSTER」の1巻で、ニナに「君を花で埋めつくすために僕は生まれた」という匿名の電子メールが送られてきます。これは、長い間離れ離れになっていたヨハンが、20歳の誕生日の前にニナへ送ったものでした。
 
 ヨハンが自分の存在をこんなにポジティブに表現することは、他にはありません。ヨハンにとってニナは特別、ニナだけが特別の存在です。ニナ=世界のようなものでしょう。
 
 ヨハンは殺戮を繰り返しました、ニナを花で埋めつくすことはできずに。
サハドもペルシアの砂漠を花で埋めつくすために造られたのに、ロボット達を破壊するプルートゥの体を持つように命じられました。
 
 エプシロンは、サハドに語りかけます。「もうやめよう・・君の意志で・・やめるんだ・・」まるでヨハン/ニナが、ヨハン的存在となって苦しんでいるサハド/プルートゥを説得しているかのようです。
 

 結局、プルートゥ/サハドはエプシロンを倒してしまいますが、「憎しみの連鎖を断ち切る」という意志はアトムに引き継がれます。
 アトムは、プルートゥとの戦いで機能停止となり、修復させられたのにも拘わらず意識を回復しなくなってしまっていました。そのアトムを目覚めさせたのはエプシロンの死ぬ際の「ものすごく大きな・・かなしみ・・」でした。

そしてアトムとプルートゥ/サハドは、憎しみを背負って激闘を繰り広げますが、やがてお互いに戦いを止めます。「憎悪からは何も生まれない」からです。
 そして共に、破滅寸前になった地球を救うのです。エプシロンの「誰か・・僕のかわりに・・地球を・・」という願いは叶えられたのです。そのためにプルートゥ/サハドは命を失います。

ヨハンの救済

 ヨハンの顔にニナの髪。やはりエプシロンは、ヨハンとニナが一つとなった存在なのではないでしょうか。 エプシロンが、ヨハンとニナが一緒になった存在だとするならば、彼(エプシロン)は彼ら(ヨハンとニナ)が望んだが得られなかったもの「親からの愛情」を、戦災孤児達に与える者となり、彼らが成し得なかった事「憎悪の連鎖を断ち切る事」をしようとしていることになります。
 
浦沢先生は、ヨハンそっくりのエプシロンを「徹底的に憎悪の連鎖を断ち切ろうとする存在」として描くことによって「憎悪の連鎖の地獄で苦しみ続けたヨハン」を救済したかったのではないでしょうか。
 「MONSTER」では、ヨハンがニナの闇を担って「怪物」となりましたが、「PLUTO」では、ニナがヨハンを光の中に招き入れて「エプシロン」となったのではないでしょうか。
 病室を抜け出したヨハンが、ニナと一緒になることによって、光を帯びてアトム達の世界を訪れたのではないでしょうか。

 

 実際にヨハンを産み出したのは、母親でもフランツ・ボナパルタでもなく、浦沢先生ご自身なのですから。





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