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歴史は繰り返されているのか?

歴史の話 第二回

 久々に与太話でない歴史の話をしようと
思います。
 第一回では、歴史の固定した情報として
扱えるところに注目して、情報処理の基礎
として役立つところがあるのではないか、
というお話をしました。
 今回は、歴史について回るお約束ワード
「歴史は繰り返す」について、考えて
みます。

 「歴史は繰り返す」と言われるのは、
どういうことを指しているのでしょう?
様々な考え方があるとは思いますが、私は
これを、「ヒトはヒトという生物の枠の
範囲内におさまっている」という意味に
解します。
 どういうことか、すごくざっくり言うと、
これまで水中や空中や宇宙空間に生身で
適応して暮らした者なんていないし、
飲んだり食べたり排泄したりしないで
生きた者もいない(する間もなく死んで
しまった個体はものすごくたくさんいた
でしょうけど)し、死ななかった者も
いませんよね、ということです。

 まあ、ここまでは当たり前な話なので、
もう少し展開します。すなわち、
「生物としての範囲内におさまっているの
なら、似たような条件下では似たような
ことが起こる」あるいは、「思考なども
ある範囲内(結構広そうですが)に
おさまる、つまり、古今東西を問わず、
似たようなことを考えたりすることがある」
のではないでしょうか。
 というわけで、「これって似てない?」
という事例をいくつか見てみましょう。

○現代・ソフィスト・縦横家

 左右司祥子さんの『自分を知るための
哲学』に、現代の描写と思ってしまい
そうなところがありました。ソフィストが
出現して活躍した少し後、ピュロンが
どうして沈黙を主張するようになったかを
説明するところです。
 「無知の知」、つまり知は神のもので
人は知に到れないということと、弁論術に
長じたソフィストたちが結びついた結果、
対話や哲学がその場限りの相対主義的な
ものへ変質してしまった、としたあと、
以下の引用に続きます。

『対話の秘訣は、じっと、世界にそして
他人に、さらに自分に耳を傾け、共通する
基盤を聞きとることに時間を費やすこと
です。しかし、そういった哲学はすたれ、
ソフィストが哲学者顔をして幅をきかせ
だすと対話が変質します。ゆったりと
聞きとることは時間のむだだとする
せわしない子供が対話しているのです。
結果を急ぎ、あせり、待つことになれて
いないはしゃぎ屋の子供が、です。こんな
対話は、たとえ顔は向き合っていても、
誰も聞いていない、大騒ぎのおしゃべりに
すぎなくなります。
 そして、いつでも他人の言ったことに
何か一言反対できる人や揚げ足をとれる人、
そういった人が、すごい人といわれるように
なるのです。そんな世のなかでは、決着の
見えない、知への方向性のまったくない、
しかも、少しも相手の言ったことを親身に
なって聞こうとしない、言いっぱなしの
騒音が幅をきかせることになります。
 これがピュロンのいた紀元前4世紀ころの
「哲学者」たちの様子だったのです。』

 古代中国、諸子百家の時代の縦横家も、
議論に特化した人たちだったようです。
 フェイクでも詭弁でも印象操作でも
何でもいいから「はい、論破」してしまえば
いい、というところが現代も含めた三者
ともに共通しているように思えます。
 条件面での共通項は、
・生産や建設などに注力しないでいい時期
・社会は既存のしくみに乗っかって運営
 できていて、比較的安定している
・物流や人の行き来などがさかん
つまり、多種多様な人たちが混ざって
考えたり議論したりする余裕がある人が
多くなっている時です。
 歴史に詳しい方に検証していただきたい
のですが、おそらくピークを少し過ぎた
時代なのではないか、という気がします。
引用したソフィストについても、弁論術が
盛んになった後のことのようですし、
縦横家で有名な蘇秦や張儀が歴史に名を
残したのも稷下の全盛を過ぎてから
なのではないかな、と思います。
 そして、この後は混乱の時代になったの
ではないかとも推測されます。現代も
すでに感染症が蔓延したり、戦争が
起きたりしていますし。

 史実じゃないかもしれませんが、
バベルの塔の話も、繁栄からことばが
乱れて混乱して衰退していく、と似た
感じがしますね。

○「旧約」「新約」と社会契約説

 「かみさまって、いるの?」と
「どうしてころしちゃいけないの?」に
書いたように、ヒトの感じている絶対神は
「私」という意識をつくっている存在で、
意識は外界での活動を委ねられたもの、と
私は考えています。
 この考え方に則れば、神との契約だという
『旧約聖書』『新約聖書』の「約」は、
社会契約ということになります。なぜなら、
神との契約というのが、カミサマ(非意識)と
私(意識)との間で、「私は外界において
このように生きます」という約束をした
意味になり、同じ約束をした者達が集まる
ことで、「我々はこのようにして社会を
営みます」または「我々はこのようにする
者達同士で社会を営みます」となるから
です。
 そう考えると、社会契約の考え方なんて、
ずーっと前から持っていたことになります。

○帝国の形成と戦争

 意外に聞こえるかもしれませんが、
いわゆる「帝国」が形成されて膨張して
いくのは、その国がピークを過ぎた証、
という点において共通しており、
繰り返しに近いと言えるかもしれません。
 与太話の豊臣秀吉(『言い方に配慮しない
日本史 近世編』)で少し触れましたが、
内戦・内乱の収束と統一は、戦時経済の
終了と成長なき人口増加によるバブル崩壊
という側面があると考えられます。(経済
成長しない(=カネやモノが増えない)まま
人口だけ増えれば、カネやモノに対して
人の価値は相対的に下がる、という考え方
です。)国内に人口増加と同等以上の
速さと規模で成長できる余地がある内は
問題は顕在化しません。しかし、マルサスが
『人口論』で述べたように、阻害要因の
少ない条件下での人口増加は、相当な
もので、すぐに人口増加の方が上回る
ことになるようです。
 こうして内圧が上がった社会は、より
圧力の低い方へ染み出していきます。
インカのように、周辺の人口が少ないなら
ただの領土拡大で済みますが、そうで
なければ戦争となります。モンゴルの
ように。
 ヨーロッパを中心とした近現代史を、
この考え方で大まかに説明できてしまう
かもしれません。すなわち、

十字軍(キリスト教国がお互いに戦わずに
外部(イスラム圏)へ染み出そうとした)
→失敗と疫病で内圧減
→大航海時代(再び内圧が上がり、今度は
イスラム圏へ進出するよりも容易そうな
未踏の地へ)
→帝国主義の時代(植民地獲得競争)
→植民地もいっぱいになり、結果、二度の
世界大戦が起こって内圧減

というように。

 全般的には人口は増え続けている、という
反論があるかもしれませんが、それは
木以外に、木以上に強力なエネルギー源を
使うようになって、社会が支えられる人口が
増えているというだけの話です。
そういうものを使ってさえ、支えられずに
戦争しなければならないほど増えてしまって
いるというところが、現代まで延々と
続いている問題のように思えます。

 豊臣秀吉のところで書きましたが、
こういう内圧を下げる行動は、時の政権や
社会にとっては勝たねばならないものでは
あるのですが、実は人を外へ出して領土を
獲得できても、獲得できないで出した人が
死んでも、生物としてのヒト集団にとっては
「どちらでも良いもの」という判断が
されているような気がします。サルとかの
群れが若いオスを追い出すように。
非常に気持ち悪い話ですけど。
 こうやって考えていくと、個人的には
非常に不本意で承服したくないのですが、
秦帝国や毛沢東やスターリンのような、
いわゆる悪政と言われるやり方も、外部へ
出ずに内圧を下げる方法の一つと言えて
しまうかもしれません。

 もしかしたら、少子化というのも、
対策が必要なことのように言われますが、
戦争や悪政に依らずに内圧を下げるための
選択、ということなのかもしれません。

 だいぶグダグダしてしまいましたが、
今回の話で考えてみたかったのは、
歴史というのは、社会(ヒトの世界)の
内部の事情の連鎖のように考えられがち
ですが、生物としてのヒトが生物の営み
として行っていることに、ヒトが理由を
つけている面があるのではないか、という
ことです。
 言い方悪いですけど、歴史なんて、
シャーレの中で菌が増殖して押し合い
圧(へ)し合いしているようなもの、
と考えられるところがないですかね、
ということです。

主な参考文献

左右司祥子著 『自分を知るための哲学』
(ナツメ社 2004)

池田清彦著 『人間、このタガの外れた
生き物』 (KKベストセラーズ 2013)

『きずなと思いやりが日本をダメにする』
長谷川眞理子, 山岸俊男著
集英社インターナショナル 2016

神野正史著 『現代を読み解くための
「世界史」講義』 (日経BP社 2016)

神野正史著 『粛清で読み解く世界史』
(辰已出版 2018)

長谷川眞理子著 『モノ申す人類学』
(青土社 2020)

 歴史の話はもう一回、歴史から民主主義を
考える話を書こうと思います。ただし、
書くのに時間がかかるものなので、次回は
与太話の類として、
「関節のしくみから腰痛について考える」
といった話をやろうと思います。


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