壊れたのはパソコンだけじゃなくて
私は悪くない。そう主張する自我と、
私が悪い。そう主張する自我。どちらを優先するべきでしょうか。
先月の最終日。企業の面接がありました。
1時間も面接に時間を割いてくださったお二人。素敵な出会いでした。
面接中、面接は笑顔が大事だから、といろんな人に言われ、ずっとにこにこしていました。でも、面接中、その笑顔の裏にたくさんの我慢があったと思います、とじっと目を見て伝えられました。こんなこと初めてでした。
面接ではこれまで取り組んできたことから、入社後は何がしたいのか、どうしてそう思ったのかなど、経験からその夢を持った過程を深く聞いてくださいました。
1時間でそこまで見えるの?わかるわけなくない?いつもなら、そうやっていらいらしながらも「そんなことないです」と笑って返せるのに、その日はうまくできなくて。自分が他の人を優先して生きてきた、とか、自分より他人、他人、みたいな考えが強いとか、そういうことじゃなくて、これまで人並みにしてきた我慢を、ひとりで耐えようとしていた我慢を、「もうしないでいいからね」と救ってもらったような、そんな気持ちになりました。我慢、と表現するくらい、過去にはしたくないこともしたし、言いたいこともも飲み込んだし、なんなら諦めるということも学んできました。おそらく、それは私だけの話ではなくて、私が、私だけが、と一番辛いことを経験したように語りたいわけじゃなくて、ただ、本当に誰かが見てくれていたり、言葉や、表情の裏に何があったのかと真剣に向き合ってくれたり、今後はもう無理しないで、とか、欲しい言葉を届けてくれたりする人に、ぼーっとでも、生きていれば出会えた、という事実をここに残したかっただけです。
私は人を怒らせる才能がある。そう自負しています。
小学高学年から、高校二年の初めまで、ほとんど毎日母を怒らせ、昨年の9月からはほとんど毎日姉を怒らせています。
その才は自然とできてしまうので、本当に才能だと思っています。
周りが怒っている理由がね、わからない時が結構あるんです。
あー、なんか怒らせたな。けど理由わかんないから、とりあえず、私悪くないかな。って思っても、いや、あれが原因かもしれないな。私が悪いのか。私か。私なんだ。けど、それって相手があぁだったからそうなったわけで、私悪くないよね。こんな感じで自責他責自責他責を繰り返して毎日生きています。怒られるたびに吐かれるため息も、モノが投げられた時のあの音も、すべてうるさいです。言葉を選ばずに言うと、汚いです。いらないです。私の人生を汚してほしくありません。私が原因でないとして、誰かの勝手な怒りで、私の心にゆとりがなくなること、断固拒否します。私の中から早く出てしまってください。私が原因であなたが怒っているなら、ため息を吐くことも、モノを投げることもやめて、伝えてほしいだけなのに。あなたが怒っている理由を考えている時間、それが必要なのか、無駄なのか、もうわかりません。考えて私は成長しますか?あなたの感情に付き合わされて、私はいつまで我慢を強いられないといけないんですか?
結局誰かを責めて言い逃れしようとして、私は悪くないという自我が育っていって、私はそのまま社会にでるかもしれない。私が悪い、って、そう決めつけたり、思い込んだりする人、我慢する人をし続けてきた人だと思います。自分で選んだのか、環境がそうさせたかは置いておいて。早く環境を変えて、面接で出会ったような人に再度出会ってみたいです。あんな出会い、この先5回あるかも怪しいです。もしこれを見つけてくださったら、ご一報ください。
そしてもう誰も、ため息を吐かないでください。