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自分を持つ魅力

どうも、ハタガミです。

太宰治の人間失格では、冒頭に人間が信用できないという主張が懇切丁寧に描かれています。

どうやら、人間はすぐに豹変したかのように怒り出すし、平然と大勢が嘘を吐くし、それを誰もが知りながら誰も止めようとしない、いびつ極まりない社会性を持つ生き物だと子供ながらに感じていたようです。

でも、私はそのいびつな事実を強く意識しているそのキャラクターを好きにはなれませんでした。そのキャラクターは人間不信のような状態に幼くしてなっており、いつも猫を被って生活していました。

正直言って、魅力的とは言えません。少なくとも私から見て、彼には何一つ惹かれるものを感じませんでした。
彼の言っていることが間違っているとも思わないし、彼が感じていたことは正しいことでもあります。なのにどうしても好きになれない。

理由を色々と考えましたが、答えは彼が自分というものを持っていなかったからだと考えました。
人に求められる姿を演じ続けることならまだわかります。ですが彼は他人の間違いを指摘し続けるくせに、自分の正当性はまるで主張しないのです。

自分が正しいと言わずに、ただ相手の間違いを心の中で唱え続けるだけ。
悪役としても成立せず、かといって主人公のような胸を打つ言動は決してしない。周りに合わせるだけなので、脇役としては無能すぎる。いても居なくても変わらない。

今回は人間失格を例に出しましたが、現実にもこのような人は存在するのではないのでしょうか。もっと言えば誰しもが、彼のような言動をする瞬間があるのではないでしょうか。
理解できないことを拒む。これは生物学的に自然のことです。でも頭ごなしに否定し続けて、自分ならどうするかや何なら正しいのかを何一つ語らないことがあると思います。そしてその場のノリや求められている本心とはかけ離れた答えを使って乗り切る。私にも経験があります。

そんなとき、その人からは何の魅力も感じなくなるのでしょう。
彼のように。

否定的な考えや、その場しのぎにはそう言ったデメリットが存在します。
もっと言えば、考えることを放棄することのデメリットでしょうか。

今まで簡単に否定してきた考えが、自分の魅力を無くしてしまうものだと気づかされました。

それではまた次の記事でお会いしましょう。
では。

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