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子どもを相手に短歌を教える
短歌ブームと言うこともあって、世の中的に歌人じゃない人を対象とした短歌イベントが増えていいるように思います。
佐藤はいま、埼玉県歌人会に入っているんですが、その関係で去年今年と、夏休みに小学生向け短歌講座の講師をやらせて貰いました。今年は「かばん」の辻井竜一さんとコンビで2日間いっしょにやったんですが、みんなとても乗ってきてくれてとても楽しく、過ごせました。
わざわざ夏休みの短歌イベント
結局誰の弟子にもなり損ねたかもしれません
以前ここにも書いたけれど、私は過去、おもに3人の「先生」と言われる人の元で短歌を作ってきました。大学の時は小市巳世司さんに、その後10年間くらい結社「花實」の利根川発さん、その後20年加藤治郎さん、という具合なのですが、大学の時はまあアララギに入っていたわけではないのでともかく、後の2人はそれぞれかなりの年月結社の中でお世話になったわけです。
でも、結局私の歌のどこを見ても「師系」を思わせる
未来短歌会には20年以上いさせてもらってます
前にも書いたように、私は22歳の時初めて短歌結社というものに入り、もうかれこれ36年経つのですが、そのうちの21年を未来短歌会で活動しています。
ご存じの通り未来は大きな結社ですので、よく、「大きいところでの活動は大変でしょう?」と言われることがあるのですが、月刊で結社誌を出しているところは、小さな結社なら割り付けも校正も会計処理も当然少ない人数でやるはずだし、結局大変さは同じだと思います。
第1歌集が出来てから
さて、第1歌集『虹の片脚』が出来てから大変だったのは謹呈です。
謹呈という言葉は知っていましたが、誰に送るべきかと言うことは全く見当も付いていませんでした。注文の冊数が丸々送られてきた記憶がありますので、代送サービスは歌葉になかったか、あっても使わなかったのです。
段ボールの中の本は、最初からビニールで封をされた個包装の状態でしたので、今思えば封筒にそのまま入れても大丈夫だったのですが、
第1歌集が家に届くまで
第1歌集を出したときの話の続きです。
「歌葉コース」での出版が認められてから、コンテンツワークスという会社と印税や装丁についてなどの決め事があったのですが、実務的なやりとりは全て荻原さんを窓口として行いました。
表紙絵は高校時代からの友達であるジャンプ作家の浅美裕子さんに依頼し、彼女との交渉ごとも荻原さんにしていただきました。
それらが終わって、原稿完成までのサポートを加藤治郎さん
「歌葉」というレーベル
私の第一歌集はSS-PROJECT(エスツープロジェクト・・・荻原裕幸さん 穂村弘さん 加藤治郎さんのグループ)が運営する歌葉(うたのは)レーベルから出した『虹の片脚』という本です。2002/10/10に発行しました。
歌葉は現在はもうないレーベルですが、従来の歌集概念を覆す画期的なものでした。この企画は2001/1/28に「@ラエティティア」というMLで発表されました。ただ、私自身はこのMLに
短歌研究創刊800号記念臨時増刊号「うたう」
梨の実歌会では相変わらず「お気楽」というハンドルネームで活動していました。何となく結社には内緒という後ろめたさと、当時ネット上の短歌活動には欠かせなかった「電脳短歌イエローページ」というリンク集の五十音順で、荻原裕幸さんの次というポジションが気に入っていて、しばらくそのままでいいやという気持ちでした。
その年(2000年)、6月の下旬に短歌研究の公式サイトで、当時としては非常に斬新な企画が発
「お気楽短歌生活」と「梨の実歌会」
私の短歌生活が大きく変わったのは2人目の子どもの育休中でした。1999年に短歌のWEBサイトを始めたのです。
PC自体は上の子の育休中にエプソンの98互換機(時代を感じるなー)を持っていたのですが、WIN3.1だったので、その環境でネットにつなぐのは私には難しかった。しかし最初の育休が明け、仕事に復帰すると職場はWIN95が普通になっており、私はベビーカーを押しながら地元のコジマでNECのノ
はじめて短歌結社に入る
学生時代私は非常にアララギチックに短歌してたので、そのままアララギに入った可能性もあったのでしたが、そうはならなかった。
なぜかというと、採用が決まった最初の勤務校に短歌の先生がいて、校内でやっていた歌会に誘われ、歌を2首出したのです。同期採用の人は他にもいたけど国語は私だけだった。
土曜の午後、(まだ土曜は半日日課でした)学校の会議室に行ったらすでに沢山人が居て、そのほとんどが学校部外