ユキと「僕」・13歳・素直さについて 〜村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』38〜

この小説における「僕」とユキの関係は、年齢差や性別に鑑みる時、いささか不穏な空気をまとうことになる。現代においては、37歳と13歳の男女が、一緒にいることの問題が取り沙汰されているからだ。その点、この小説はあっけらかんと進み、2人でいることを周りが訝しむことはない。それは社会が大人の男を信頼できた世相のゆえだろうか、それとも、女性の置かれた立場が多寡を括られていたからだろうか。その辺は、よくわからない。

重要なのは、信頼できる異性の大人が成長においては必要なのだという信念がダンス・ダンス・ダンス』に見られることではないだろうか。もちろん同性であってもいいかもしれない。しかし、アメの子どもがユキという女性であるという設定は、入れ替え不可能なものであって、もしユキがユウキという男性であったなら、このような展開になったかどうかは疑わしい。そういう意味で、ユキは単なる機能ではなく、『ダンス・ダンス・ダンス』において必要不可欠な人物であると言える。

13歳は多感な時期である。書き手が大人になっても、いつまでも、その年代を主人公にして物語を描こうとするケースがあって、昔はそういうものかと思っていたけれど、今になると驚くべき所業だと思わざるを得ない。思春期に自分が考えていたことは刻々と薄汚れた社会の価値観に置き換わっていくし、かつて自分がそう思っていたはずのことも、いつしかため息の中に紛れ込ませて忘れてしまうものだからだ。

辻村深月さんという作家さんがいて、かつてメフィスト賞を取った『冷たい校舎の時は止まる』を興味深く読んだものだが、『かがみの孤城』でも閉鎖空間における群像劇を反復し、繰り返し成長期のこころを描こうとする姿勢には頭が下がる。その解決をぼんやりとオープンな形で留めておくこともさることながら。

男女の別を云々するのは行儀が悪いが、13歳の男子は考えていることは高が知れている。成熟という点では、いささか悩ましいことだが、私もまた「牛丼食いたい」「あの子が好きだ」「毎日だりー」くらいのことだけが世界の関心ごとだった。それではやっぱり、ユキの代わりにはならないだろう。

情けないので、過去の自分への復讐からか上の子には、もっと自己規律というものを身につけてもらおうと思って必死だったが、見事に私のクローンのように、皮肉屋で斜に構えた意気地のない楽天家が育ちつつある。

ユキと「僕」は映画館で五反田君の出演する映画を見た。そしてユキの具合がみるみるうちに悪くなった。ユキを連れて車へ戻った。例の五反田君が置いていったマセラッティだ。

マセラッティに乗ったユキと「僕」は、海に行った。そこでユキは、違和感の正体を口にした。「僕」はそれを聞いて驚いた。驚くと同時に、どこか得心していた。

ユキは、車に乗っている間ずっと、具合が悪かった。車すら、どこか不吉なものがあるらしい。「僕」は混乱したが、ユキと別れることが、ユキの混乱を直すことだと思い、ユキを送り返し、もう一度キチンと考える必要があると思った。

それでも私に比べて良いところは、物おじせず慎重なところだろう。このまま異性に対する恐怖心などのようなものを持たず、フラットに向かい合える人になってほしい。『ダンス・ダンス・ダンス』の「僕」はその点、現在はともかく過去においては、関係に対して素直ではない。しかし、いくつかの冒険を通じて、素直さ(オネスティ)といえるものを手に入れていった。敢えて言えば『ダンス・ダンス・ダンス』は、素直さをめぐる小説ではないだろうか。

純粋であること、無垢であることは、若いうちは可能である。しかし、素直さは、一度純粋さや無垢を失い、その上で獲得できる世界に対する一つの態度ではないだろうか。私は、「僕」とユキのやりとりにおいて、「僕」はユキに節度と倫理を与え、ユキは「僕」に素直であることの意味を与えた、と思う。あまりに、教訓的な読み方に過ぎるだろうか。

かつて読書会では、書籍を教訓的に、すなわち論語のような読み方をしようとすることを厳しく嗜められた。曰く、小説は「教え」ではないと。なんでもかんでも「教え」を読み取ろうとする態度は危険であり、反動であると。

まあそうかもしれない。あの頃はちょうど新興宗教ブームで、そうした啓発的な態度は、逆に危険を呼び込むものとして忌避された。答えを文中に求めるのではなく、答えは文を書く行為の解釈において会得できるものであった。そのことは、今遠回りして戻ってきた身としては、正しいように思う。しかし、あの段階で、ことさらに教訓的な読み方や素直な感覚の表面に対して異議を申し立てることは、よりそうした読みに固執させる危険性があった。

そんなリゴリスティックな先達が、ダークサイドへと堕ちる姿を見るのは忍びない。あなたはあんなに私のそうした性急さ、軽率さ、機会主義的な態度、エビデンスに基づかない断定、隠れた党派性、押さえ込んでいる疾しさ、そういった様々な「悪徳」らしきものを私に教えてくれたではないですか。

何を言っているかわからなくなったので、一言でまとめると、尊敬していた先輩が怪しげな意見をネットで振い出した姿を見て、悲しくなったのである。

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