晴れ間、寄り道、我孫子
志賀直哉が千葉県の我孫子に移り住んだのは1915(大正4)年のことだった。
そして、その我孫子を離れたのが1923年(大正12)年3月。
このおおよそ8年の間に、「城の崎にて」「和解」「大津順吉」「暗夜行路」など、のちに代表作とされるものを発表した。
我孫子から京都に越した時、志賀は、実は前から行きたいと思っていたが、武者小路を呼び寄せた手前、自分が我孫子からすぐに引っ越すということはためらわれた、という趣旨の発言をしている(本多秋五『志賀直哉』上)。
いずれにしても、大正期の我孫子は郊外も郊外である。そんなド郊外は風光明媚であっても、志賀には退屈だったということである。
しかしながら、その退屈さが、多作へとつながったのではないか、とも言える。
現在、我孫子は常磐線の一駅である。牛久に住んでいた昔の後輩に言わせると、常磐線を順繰りに言っていくと、柏と取手はすんなり出ても、三河島と我孫子を一瞬忘れるのだという。そんなものだろうか、と常磐線を知らない私は思ったものである。
で、私は、我孫子に、弾丸で、(仕事中に)行った。
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今回は車はやめた。
私が嫌いなのは1に戦争、2に犯罪、3に渋滞である。
佐原行の際もそうだったが、埼玉から千葉へと横断しようとすると、なぜか渋滞に襲われる。平日昼でもこの有様なので、タイプを打ちながら行ける電車を選んだ。仕事中だしね(おい)。
手賀沼があるのは南口、今回は時間もないので、とにかく志賀直哉邸跡だけでもと先を急ぐ。
空は晴れ渡って、ちょうどいい。カフェに寄りたかったが、思ったよりも時間がない。
駅前には、こうした手賀沼散歩地図があった。
起伏に富んだ地形で、湖に向かって傾斜しており、大正期においてはさぞかし、風光明媚な風景が見られただろうと思う。戦後の開発が始まるまでは、沼の水を掬って飲めたのだそう。ウナギ、コイ、フナ料理も有名だったそう。
残念ながら、切り通しに家を建てるだけでは、風景は望めないのかもしれない。そして重機の入ることのできない、こうした切り通しの空間に家を建てることは、今の建築基準では、なかなか難しいのかもしれない。この時代だからこそ手に入れられた土地と眺望であろう。
とはいえ手賀沼は、側に寄ってしまえば、良い風景を見せてくれる。水質も、1970年代に比べれば改善してきている。
公園もあり、図書館もあり、駐車場もありで、次回は車で来て、キチンと見て回ろうという気持ちになった。
ここが志賀直哉邸跡。掃除している人が家の中にいて、観光客が勝手に上がっていいのか!太っ腹だな!と思ったけど、それは勘違いだった。
現在は、書斎だけが復元されて、残されている。
その後、「十一月三日午後の事」の足跡を追うのは、ちょっと時間的に厳しいと踏んで、とりあえず今日は白樺文学館に行くだけにしようと思った。
若干地味と思ったが、内装は綺麗で、コンパクトでよかった。地下に柳宗悦の奥さんの兼子さんの録音を流した音響ホール。これはとても心地よかった。一階にはピアノホール。図書室。展示を写すことは控えたが、我孫子と白樺派のことを予習していくと、志賀直哉の研究本がズラッと並んでいるのは利便的。『白樺』や『民藝』もバックナンバー(復刻)がある。
2階は大展示室と小展示室。そこの鍵のかかった本棚に、初版の『万暦赤絵』があったが、岩波文庫のそれと同一か否かを確認したいと申し出るほどの度胸はなく、学芸員の方に聞くだけにとどまった。同一っぽいが確証は得ていない。
戻って、図書館に寄る。郷土資料コーナーには、これまた白樺派関係の書籍が並んでいた。ここも内部は撮影せず。
帰りも、嘉納治五郎旧邸跡を訪ねる。嘉納治五郎は日本近代柔道の祖で、柳宗悦の叔父。治五郎の父・治郎作は、若き勝海舟を寓居させていたことでも有名。
隣には、柳宗悦邸の跡があるようなのだが、そこで子どもたちが遊んでおり、それをかき分けて写真を撮っていたら、確実に不審者と思われる出で立ちなので、そそくさと逃げた。オッサン受難である。
坂の多い風景も、千葉の鎌倉というだけある。鎌倉こそ神奈川の我孫子と言いたいところだが、幕府と白樺派だと、さすがに幕府の方が強いか。ま、我々は埼玉県民なので、どちらでもよろしいが。
桜をひたすら追いかける旅をしてみたい。ちなみに、中央本線で、上野原~四方津~猿橋あたりの山にポツンと桜が咲いていたりするんだけど、ああいうのも誰か植えたんですかね。不思議。
お土産の「白樺派のカレー」3種類セット。1800円。先の図書館のカフェでも食せるそうです。食レポは後日。
羅さんに、「いつも遊びも仕事だって言ってるんだから、ちょっとは良いですよね」と、おみやげとして袖の下を入れておいた。