52 教員2年目 成功は自分のおかげ 失敗は他人のせいの最低な奴
ー成功は自分のおかげ 失敗は他人のせいー
タイトルにも書きましたが、2年目は、この言葉に尽きます。
前回の記事に引き続き、教員2年目を振り返ります。
2年目の職務内容
2年目も4年生の担任を持ちました。単学級35人。2年目になり、社会や書写など、これまで専科だった教科も自身でしなければなりません。何より単学級なので、すべて学年のことをしなければならず、仕事量が増えることになりました。
「1年目も4年生でやってきたんだ、大丈夫!」
自分に言い聞かせ、去年の授業や学校行事をふり返りながら、計画を進めていきました。
2年目の変化
2年目になって大きく変わったことは2つです
2年目の最低な日々 ~行き当たりばったりの学級経営~
まず、課外クラブの指導者をすることは非常に大きな負担となりました。平日は毎日午後7時まで練習があるので、5時から6時の間には仕事を中断し、グラウンドへ向かいます。終了後、帰宅して弁当を買うか簡単な自炊を済ませ、酒を飲みながら仕事に向かいます。当然疲れと酔いで仕事ははかどらず、リビングで横たわる毎日でした。
「酒を飲まなきゃやってられんわ!」
「明日の授業の準備はせんといけんわ!」
今考えると、とても非効率的ですが、当時はそれが当たり前でした。当然、授業準備はそこまでできず、行き当たりばったりの学級経営が続きます。
ここで、1人登校をしぶるBくんが表れます。
お母さんから話を聞くと、昨年からその傾向はあったようです。「今年になって、学校に行きたくなくなったようです。」
私は、去年から登校しぶりの傾向があったんだと、自分のせいだとは全く考えませんでした。むしろ、去年の先生のせいにする気持ちもどこかでありました。
学校や課外クラブの指導が終わったら、Bくんの家に行かないといけないな…
もし、引継ぎで詳しくBくんの様子を聞いていたらー
家庭訪問でしっかりと話ができていたらー
日々の学級経営がその日暮らしになっていなければー
Bくんが登校しぶりに陥る兆候を見逃していなければー
そう思えば思うほど、当時の自分に腹立たしくなります。
全て、他人のせいにしていたのです。
支援員の先生と上手く連携が取れず…
また、支援員の先生とうまく連携が取れず、お互いかみ合わない中で授業を行っていました。
その年の年賀状では、
Masa先生にとって思うような支援ができず、申し訳ありません
と書かれていました。
当時、支援員の先生とうまく連携が取れないことをその方のせいにしており、自分から歩み寄ろうとはしなかったのです。朝、早く来て全て丸つけをしていただき、授業中机間巡視を欠かさず行い、理解が不十分な子どもへ補充学習に付き合ってくれるすばらしい支援員の先生であったのにもかかわらず、です。
ー1人で授業をするほうが楽だー
ーなんで自分のクラスにいるんだー
ー他のクラスにいけばいいのにー
ここでも、他人のせいにして、自分の非を認めようともしていませんでした。
課外クラブの偽りの成功
一方で、課外クラブの指導者としてはとても順調なスタートを切りました。
4月から指導者になり、5月の試合では県大会を勝ち取り、7,8月では上位入賞の常連チームとなりました。
市内でも有数の強豪チームとなり、その指導者である私は周囲から一目置かれる存在になったのです。
ー俺のおかげで、チームを勝たせることができたんだー
ー強豪チームになったのは、俺が指導者になったからだー
今思えば、チームメンバーの素質はありましたが、前年度は保護者がまとまらずに勝つことができていませんでした。
それが、今年になって保護者がまとまり、子ども達もやる気を出して結果が出るようになっただけでした。
つまり、私はお山の大将だったのです。
それに気づかず、私はチームの成功は自分のおかげと思い込んでいました。その成功に味をしめており、学級経営にはあまり関心を向けていなかったです。
心機一転の2年目にも関わらず、
成功は自分のおかげ 失敗は他人のせいの最低な奴
で終えました。
さて、3年目は、どのような教員生活を送るのでしょうか。
今日の記事は、以上になります。
少しでも私の記事がいいと思ったら、スキを押していただけると、明日の投稿へのモチベーションが爆上がりします!
よければお願いします。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?