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精読「ジェンダー・トラブル」#040 第1章-6 p61
※ #039 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。
(バトラーによるウィティッグの引用)
セックスは、自然の秩序に属する「直接的な与件」とか「知覚可能な与件」とか「身体的特徴」だと考えられている。だがわたしたちが身体的で直接的な知覚と信じているものは、じつは精巧につくられた神話的な構築物、すなわち「想像上の組成」にすぎない。
「与件」は哲学において、無前提に使えるものの意味です。一般にセックスとは、自然なもの、誰でも(赤ちゃんでも)見て触ってそれと分かるもの、元々身体に備わっているもの、と考えられているーーというのが文意です。
しかしそれは「精巧につくられた神話的な構築物」であり「想像上の組成」だとウィティッグは主張します。
こういった「自然」の生産は、強制的異性愛の命令にしたがっておこなわれるものなので、彼女の考えでは、同性愛の欲望の出現は、セックスのカテゴリーを超越するものである。「もしも欲望がそれ自身を解放することがあれば、それはセックスによる事前のしるしづけとは何の関係もないものとなるだろう」。
「強制的異性愛」の下では、人の抱く「欲望」は異性愛の形をとるよう強制力が働くが、もしその強制力から逃れることができれば、セックスは男女からなるいわゆる「自然」なものとは全然違ったものになるだろう、とウィティッグは主張します。
もちろん彼女の見解は、イリガライとは根本的に異なっている。イリガライなら、ジェンダーの「しるし」は、覇権的な男の意味機構の一部をなすものであり、この意味機構は、西洋哲学の伝統のなかで存在論の領域を事実上決定してきた思考メカニズムーーそれ自身を自分で作り上げる思考メカニズムーーをつうじて作動するものだと言うだろう。
男は女を排除して、別途、女のハリボテを作り、それを女と呼ぶ、というのがイリガライの世界観でした。詳しくは 33頁(#015)をご覧ください。
「それ自身を自分で作り上げる思考メカニズム」とは、〈われ思う〉の〈われ〉のような主語は、ほんとうは幻想にすぎないにもかからわず、実体として扱われることです。詳しくは 51頁(#031)をご覧ください。
人が無自覚に〈女〉と言うとき、ハリボテの女が実体の女として、そして自然な女として表象されるので、表象不能な本物の女がレズビアンになろうがなるまいが、事態は何も変わらないとイラガライなら考えるのでは、とバトラーは言います。
だがウィティッグにとっては、言語はけっしてその構造においてではなく、その適用において女性蔑視であるような手段であり、道具なのである。
言語が「道具」となるには、言語の上位に行為者たる主体を想定しなくてはいけません。いっぽうイリガライは、言語が上位で、その下に人がいると考えるので、言語が「道具」になることはありません。
(#041 に続きます)
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