精読「ジェンダー・トラブル」#031 第1章-5 p51
※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。
イリガライは〈ひと〉に異議を唱えましたが、ウィティッグは、女ではなくレズビアンこそが〈ひと〉になるのだ、と主張することで、〈ひと〉を追認しました。
ウィティッグは唯物論者、イリガライは本質論者の傾向があります。
唯物論であるマルクス主義フェミニズムおよびその派生形であるラディカル・フェミニズムの考えを至極大ざっぱに言うと、男女の区別が革命のようなものによって消滅し、差別のない〈ひと〉の世界になる、というものです。
それに対し本質論は男女二言論で考え、男女の区別は絶対です。
二人の違いはさらに、イリガライが「実体の形而上学」を批判するのに対し、ウィティッグは「実体の形而上学にいまだに囚われている」という点にあります。「実体の形而上学」とは〈普遍的な「ひと」という実体がある〉と主張することでした(#016 参照)。
そもそも、なんで「レズビアンの解放」なのでしょうか。
Wikipedia(英語、Google翻訳)を見ると、次のような説明がありました。
女の解放は(男がいるので)不可能だが、レズビアンであれば(レズビアンしかいないので)解放が可能だ、という発想は、〈レズビアン=ひと〉という前提がなければ成立しませんし、それが成立するためには〈「ひと」という実体が存在する〉という前提がさらに必要となります。
ウィティッグはレズビアンという「セックスのカテゴリーそのものを生み出し」、〈男=ひと〉と全く同じように〈レズビアン=ひと〉という定式を立てます。
同じことは現代でも行われています。LGBTの教育です。LもGもBもTもみな、自然なセックスのカテゴリーであり、みな同じ〈ひと〉であるーーという主張が非常にまずいのは、ぐちゃぐちゃした権力の部分をすべてきれいに覆い隠し、ゴディバのアソートのようにセックスをきれいに並べるだけで話を完結させているので、現状を維持する方向に力が働く点です。
「我思う、ゆえに我あり」と言うとき、文法上、思う対象が何か存在していなくてはなりません。しかし「我思う」という言い回しに私たちが疑問を抱かないのは、〈思う対象が実体としてどこかに存在している〉という強い「信仰」を私たちが持っているからです。
しかしそのような「《存在》」や「《実体》」はときに「幻想」です。とりわけ普遍的な真理を扱う哲学においては、その多くは「幻想」です。
文法上の要請によって現れた「こういった構築物」、つまりカッコつきの「《存在》」や「《実体》」は「幻想」です。それはデカルトがそれによって揺るぎないコギトを得たように、「人為的な哲学手段」として機能します。しかしそうして得られたコギト、つまり〈ひと〉は、「真の秩序を明らかにしたり、表現したり」はしません。
カッコつきの「女」も文法が生んだ実体の幻想です。「女」は「人為的な哲学手段」として機能し、そこから「女」の「単一性や秩序やアイデンティティ」が「結果的に」生じます。が、そのような「女」はリアルな女ではありませんでした(#006 参照)。
(#032に続きます)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?