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精読「ジェンダー・トラブル」#016 第1章-3 p34

※ #012 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。


 女は誤って意味づけられる、という説明に続いて、バトラーはこう言います。

だからこそひとつでないセックスは、覇権的な西洋の表象作用や、主体概念を構築している実体の形而上学を批判するときの、出発点となりえるのである。

「ジェンダー・トラブル」p34

 「実体の形而上学」という奇妙な言葉が出てきました。これはなんでしょうか。

人間主義的なフェミニズムの立場では、ジェンダー化される以前の実体、あるいは「核」とみなされているひとーーつまり理性や、道徳的思慮や、言語に対する普遍的な能力をしめす、ひとと呼ばれるものーーの一つの属性として、ジェンダーが理解されることになる。

「ジェンダー・トラブル」p34

 この箇所は #014(p32) で一度引用しました。このように〈普遍的な「ひと」という実体がある〉と主張するのが「実体の形而上学」です。
 そしてこのまっさらな実体は、社会的文脈に応じてジェンダー属性が与えられるとされます。
 このような、文脈が属性を与える、という発想下では、ジェンダーとは次のようなものになります。

ジェンダーは、文脈によって異なる変化する現象なので、実体的な存在を意味するものではなく、ある特定の文化や歴史のなかの種々の関係が収束する相対的な点にすぎないものである。

「ジェンダー・トラブル」p34

 噛み砕いて言うと次のようになるでしょうーー様々な文化を並べてそのジェンダーの表象を比較すると、その内容はバラバラなので、内容自体に何か意味があるのではない。意味があるのは〈男性的/女性的〉のような相対的な関係性であり、それは文化や歴史が構築した男女関係の写しである。したがってジェンダーは「文化や歴史のなかの種々の関係が収束する相対的な点」にすぎず、たとえば公衆トイレで、男が青でなくてはならない理由、女が赤でなくてはならない理由、といったものはないーー。
 こういう考えが不自然に感じる理由は、男女を超越した中立的な立場から、一対の〈男性性/女性性〉を男女に公正に割り振るイメージがあるからです。〈中立〉というのはいつでもうさん臭いものです。

けれどもイリガライなら、女という「セックス」は言語上の不在の点であり、その実体を文法的に明示することが不可能なものであり、ゆえにそのような実体は、男中心の言説が持続的で基盤主義的な幻想であることをあばくものだと主張するだろう。

「ジェンダー・トラブル」p34

 「言語上の不在の点」とは、要は〈その他〉です。〈その他〉と言われて、なにか具体的な像を思い浮かべられる人はいません。
 よって〈その他〉を実体扱いする「男中心の言説」は誤っています。
 この誤った言説が「持続」している理由は、「社会のまえにひとが存在しているという基盤主義的な前提」(21頁)が「男中心の言説」を守っているからです。それは今や「幻想」だと暴かれました。

イリガライにとっては、女というセックスは、内在的に、また反面的に、主体を男性的なものとして定義する「欠如」でもなければ、「《他者》」でもない。そうではなくて女というセックスは、「《他者》」でもなければ、「欠如」でもなく、つまり男根ロゴス中心主義の計略に内在するサルトル的な主体にかかわるようなカテゴリーではないので、表象されるための必要条件をうまくすり抜けていく。

「ジェンダー・トラブル」p34-35

 「欠如」について、33頁にこうあります。

ボーヴォワールにとって、女は男の否定形であり、男のアイデンティティがそれに照らして自らを差異化する欠如であった。

「ジェンダー・トラブル」p33

 つまり「欠如」とは〈男性的でないもの〉という、男ありきで定義されるものです。
 「《他者》」はボーヴォワールの言う、普遍的な男性の「反面」である、ジェンダーのしるしがつけられた、普遍的主体になれない女性のことです。
 イリガライにとって「女というセックス(=身体)」は、「欠如」「他者」のいずれの〈不完全な主体〉でもありません。
 「男根ロゴス中心主義」においては、舞台も登場人物も全て男の手によるもので、女は男の作ったハリボテでした。いっぽう身体をもつ女は舞台の外から他人事として様子を眺めています。だから女の身体は舞台の上で表象されることはなく、したがって不完全どころか、そもそも主体ですらないのです。

(#017に続きます)

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