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精読「ジェンダー・トラブル」#017 第1章-3 p35

※ #012 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。


 女性的なものは主体のしるしには決してなれない(女は主体になれない)という議論に続いて、女性的なものの別の側面が次に述べられます。

さらにまた女性的なものは、どのような言説の内部にも存在する男性的/女性的という確定的な関係を前提とした議論では、(そもそも言説というのが、この場合に適切な概念ではないので)どうしても理論化することができないものである。

「ジェンダー・トラブル」p35

 女性的なものを理論化する場合に、それを既存の言説から導き出すのは適切な方法ではありません。なぜならどのような既存の言説も「男性的/女性的という確定的な関係を前提」としている、つまり言説は〈ジェンダーとは関係である〉という前提で構築されているので、男性的なものを抜きにして〈女性的なものは〜である〉と言説分析を用いて「理論化することができない」からです。
 理論化できなければ、女性的なものが適切に表象されることもありません。

結局、言説は、それがどのように多様なものであっても、男根ロゴス中心主義の言語の様態を、ただ数多く作り出しているにすぎない。したがって女というセックスは、ひとつではない主体でもある。

「ジェンダー・トラブル」p35

 これまで〈女は主体になれない〉という議論がなされてきました。しかしここでは「主体でもある」とあります。
 イリガライによれば、女の身体は男の作ったハリボテでした。自分をゴリラだと思っている婦人警察官が、周囲から当然のように〈か弱い女〉扱いを受けるのは、本人にとってとても奇妙な、かつ疎外感を受ける経験です。そして彼女はゴリラらしい振る舞いを禁じられ、意に反しながらも〈か弱い女〉らしく振る舞おうと努力します。そんな彼女にとって、〈か弱い女〉というハリボテは自由意志を持った主体とは言えません。
 しかし、男から見たらどうでしょう。彼は男視点の言説を生きています。だから彼にとって婦人警察官が〈か弱い女〉であることは真実に映ります。そして〈か弱い女〉が一貫して〈か弱い女〉らしく振る舞っているのを目にすることで、〈彼女は自由意志により主体的に行動している〉と判断するのです。だから彼女は、アイロニックに言えば「主体でもある」のです。

フェミニズムがジェンダーを検証しようとするとき、往々にして問題の多い堂々巡りに陥る。この堂々巡りは、一方にジェンダーはひとの二義的な特徴だという見方があり、他方で、言語のなかで「主体」として位置づけられるひとという概念は、そもそも男中心の構築物であり、男の特権であって、ゆえに女のジェンダーという構造上・意味論上の可能性は結果的に排除されているという見方があるために、なお強調される。

「ジェンダー・トラブル」p35

 無性の「ひと」という主体の属性のひとつがジェンダーだ(したがって男女ともに主体である)、とするのが堂々巡りのいっぽうです。
 無性の「ひと」という主体はじつは男であるので、主体として存在するのは男というジェンダーを属性にもった男だけであり、女というジェンダーをもった主体は存在しない、というのが堂々巡りのもういっぽうです。

ジェンダーの意味をめぐって、このように鋭い意見の対立があるからこそ(つまり、議論すべき用語はジェンダーなのか、あるいは、セックスが言説によって構築されていることの方がもっと根本的な問題なのかーーつまりたぶん、女たちか女、および/または、男たちと男ーーといったことがあるからこそ)、根本的にジェンダーが非対称的な状況におけるアイデンティティ・カテゴリーについて、それこそ根本的に考えなおす必要が生まれてくるのである。

「ジェンダー・トラブル」p35-36

 カッコの中の「ーーつまりたぶん、女たちか女、および/または、男たちと男ーー」の部分は何を言っているのでしょうか。
 議論すべきはジェンダーかセックスか。
 堂々巡りのいっぽうの議論では、ジェンダーは無性の「ひと」という主体の属性のひとつでした。このとき男も女もともに主体です。
 もういっぽうの場合では、「ひと」のセックスは男なので、主体は男だけでした。
 よって「女たちか女」の「女たち」とは、〈人によって様々なジェンダー属性を持つ多様な主体である女たち〉を、「」とは〈主体となれないセックス=女〉を意味しています。それが「女たちか女」と二者択一になっているのは、言い換えれば〈女は主体か否か〉となるでしょう。
 「男たちと男」はどうでしょう。〈様々なジェンダー属性を持つ多様な主体である男たち〉も、〈主体であるセックス=〉も、ともに主体です。だから男の場合はジェンダーを議論しようがセックスを議論しようが差はないので「男たちと男」と並置しているのでしょう。
 「根本的にジェンダーが非対称的な状況」とは、男だけが主体となれる状況です。そういった状況下における「アイデンティティ・カテゴリー」を「根本的に考えなおす必要が生まれてくる」とバトラーは言います。
 唐突に出てきた「アイデンティティ・カテゴリー」とはなんでしょう。22頁(#004)でバトラーはこう言っています。

ジェンダーは、人種、階級、民族、性、地域にまつわる言説によって構築されているアイデンティティの様態と、複雑に絡み合っている

「ジェンダー・トラブル」p22

 いろいろと属性が出てくると、性については、男か女か、の単純な二分法で、あたかも性が「二義的な特徴」のように考えがちです。が、それは根本から考え直さなくてはいけない、とバトラーは言います。

(#018に続きます)

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