![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/113691068/rectangle_large_type_2_dbf67d6b64ea30fa7f3ec5be983f53a4.jpeg?width=800)
精読「ジェンダー・トラブル」#004 第1章-1 p22
※ #001 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。
もしもひとが女で「ある」としても、それがそのひとのすべてでないことは確かである。その語がすべてを包摂することができないのは、ジェンダー化されるまえの「ひと」が、そのジェンダーを成り立たせている装具一式を超えたものであるからではない。そうではなくて、異なった歴史的文脈を貫いてジェンダーがつねに一貫して矛盾なく構築されているわけではないからであり、またジェンダーは、人種、階級、民族、性、地域にまつわる言説によって構築されているアイデンティティの様態と、複雑に絡み合っているからである。その結果、ジェンダーをつねに生みだし保持している政治的および文化的な交錯から、「ジェンダー」だけを分離することは不可能なのである。
バトラーは「ジェンダー化されるまえの『ひと』」はいないと考えます。また「原始、女性は太陽であった」といった本質論でも考えません。広い意味での法構造により個々の主体が作られる、とフーコー的に考えます。
広い意味での法構造は「歴史的文脈」とも言い換えることができます。そして歴史というものは単一ではなく、複数の(ときに相容れない)歴史が層をなしています。それらは同時に人へ影響を与え、複雑な力学で人を形作ります。だからジェンダーも「つねに一貫して矛盾なく構築されているわけではない」のです。
無垢の人が事後的にジェンダー属性を付加されるから「女」というジェンダーだけではその人を言い表すことができないのではなく、人は完全に構造により規定されるものの、その構造が整合的でないために、法のように整合的な「女」というジェンダーではその矛盾に満ちた人を矛盾込みで言い表すことができないのです。
不整合の理由は「歴史的文脈」の存在です。これをフーコー的に言えば、共時的には「言説」、通時的には「系譜学」となります。
「言説(discours)」は分かりにくい言葉です。Wikipedia にはこうあります。
ディスクールは、無意識のうちに制度や権力と不可分に結びついており、抑圧・排除・差別などといった制度的権力の構図を内包している。
無条件に「女は云々」と言うだけで法制度による排除が発動するさまは既に見てきました。
しかし差別は女性差別だけではなく、人種、階級、民族、地域(そしてセクシャリティ)の差異についても起こります。それらは絡まり合っているので、女性差別だけを抜き出して「これがジェンダーの言説です」と言うのは不可能です。無条件で「女」で団結できると思っている人は、他の属性(人種、階級、民族、地域、セクシャリティほか)についてはマジョリティであり差別された経験のない恵まれた女性だけでしょう。
では「女」で団結するのは不可能なのでしょうか。バトラーは、互いの違いに思いを馳せながら団結すべきだ、という意見です。
しかしこれは、実効性という面ではかなり弱いような気がします。
(#005に続きます)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?