見出し画像

精読「ジェンダー・トラブル」#005 第1章-1 p23

※ #001 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

すべての女を表象/代表しうると主張するフェミニズムが、その見せかけを推し進めようとして、ぜがひでも家父長制に普遍的な地位を与えなければと思い、この性急さゆえに、女に共通の隷属的経験をさせるとみなしている支配構造の、まさにそのカテゴリー好きの架空の普遍性に向かって、フェミニズム自身がまっしぐらに突き進んでしまうことになるのである。

「ジェンダー・トラブル」p23

 私はフェミニズム史には疎いので、図書館で借りてきた「フェミニズム大図鑑」という本で調べてみると、どうやら1970〜80年代に「家父長制」は流行ったようです。
 「家父長制」とは世界中で歴史を超えて普遍的に見られる「支配構造」であり、西欧だけでなく〈オリエンタル〉や〈第三世界〉といった〈野蛮〉な地域でも見られる。「家父長制」下で女性はみな抑圧され、公領域から排除され、割礼をはじめとした非人道的な扱いを受けているーーというのがざっくりとしたところです。
 「カテゴリー好き」とは、これまでの話の流れで言うと、法構造による主体の生成・正当化とそれ以外の人々の排除が「好き」な人を意味します。つまり西欧白人女性基準の世界へのゴリ押しです。〈野蛮〉な途上国で〈残虐〉な抑圧が行われている → 私たちが彼女らを〈解放〉してあげねば、という、当事者無視の〈欧米あるある〉です。
 今でも西欧の人には、自分たちの基準を他者に押し付け、他者がどう思うかまるで考えの及ばない、他者のことを考えるという発想すらない人が多い気がします。たとえばシーシェパードのような暴力的な動物愛護団体や独自の理論で絵画に塗料をぶちまける環境保護団体、国家レベルでは西欧流の民主主義や人権思想を非西欧国に無理やり押し付け、国が混乱しても何も対処しないような国です。それはキリスト教伝道の歴史の影響が大きいのでしょう。彼らはまさに「まっしぐら」です。歯止めのきかない独りよがりの正義漢は有害なだけです。
 彼女らによる排除の度が過ぎたことから、彼女らが排除した世界中の人々からフェミニズムは批判されたようです。ただ救いだったのは、フェミニズムは共産党などとは違って、内外からの批判に開かれていたことです。

男性的/女性的という二分法は、各項の固有性を認識するために排他的な枠組みを作りだすばかりでなく、他のあらゆる方法においても、女性的という「固有性」が、またしても完璧に脱文脈化されるのである。つまり、「アイデンティティ」を構築すると同時に、単一なアイデンティティという考え方を誤ったものとみなす階級・人種・民族・その他の権力関係の諸軸でつくられている構築物から、女という「固有性」が、またしても、分析上、政治上、分離されていくのである。

「ジェンダー・トラブル」p23-24

 「男性的/女性的」という意味の言葉は誰でも普通に使います。〈ボーイッシュ〉〈ガーリー〉などです。が、ここでの「男性的/女性的」はファッションの話ではありません。
 「家父長制」の議論では、たとえば〈論理性〉は「男性的」なものとみなされました。それに対抗するのが〈共感性〉のような「女性的」なものです。そうやって〈男性社会 vs 女性社会〉という図式が作り上げられ、その上でバトルがなされていました。
 そういうのは今ではただの偏見だとみなされ、ポリコレ的にはアウトです(が、今なお政治家には〈女性ならではの視点〉を饒舌に語る人がいます。女性候補に女性らしさを求める頑迷な高齢有権者がまだまだ多いからです)。
 いっぽう脳科学では、男女の脳に違いが多くあることが分かっています。違いがあるというよりはむしろ〈男女の脳は基本的に別のものだが、共通点も少しだけある〉というのが真実だと『妻のトリセツ』の著者の本で読んだことがあります。
 では、なにかを〈女性らしい〉と言うのは、科学的に正しいとされていれば、言ってもかまわないのでしょうか。それとも、それはあくまで傾向に過ぎず、断定してしまうのは偏見なので言ってはダメなのでしょうか。
 ……といった問いを抱く時点で、バトラー的にはアウトです。
 丁寧に見ていきましょう。

男性的/女性的という二分法は、各項の固有性を認識するために排他的な枠組みを作りだす

「ジェンダー・トラブル」p23

 〈数学は男子が得意〉〈英語は女子が得意〉のように、あるひとまとまりの総体に対し〈これは男性性〉〈これは女性性〉と排他的二分法が施されると、今度は逆に〈男性性〉〈女性性〉が、重なるところがない別個の実体として立ち現れ、そういうものが始めから普遍的に存在してきたように人は感じてしまいます。

……作りだすばかりでなく、他のあらゆる方法においても、女性的という「固有性」が、またしても完璧に脱文脈化されるのである。

「ジェンダー・トラブル」p23-24

 「他のあらゆる方法」とは、「家父長制」というアプローチ以外のやりかたによる議論においても、という意味。バトラーは「家父長制」というアプローチがまずいというよりも、「男性的/女性的という二分法」を持ち出すことがまずいのだ、と言います。
 たとえば〈感受性=女性的〉といった、二分法を施した結果生じた「女性的という『固有性』」は、「またしても」つまり「家父長制」アプローチで生じたのと同じようにして、「完璧に脱文脈化される」。「完璧」とは、階級、人種、民族といったジェンダーと絡み合う複合体からジェンダーだけが単独できれいに抜き出されるさまを言います。「脱文脈化」は、ジェンダーの言説がリアルな言説から切り離されることです。

つまり、「アイデンティティ」を構築すると同時に、単一なアイデンティティという考え方を誤ったものとみなす階級・人種・民族・その他の権力関係の諸軸でつくられている構築物から、女という「固有性」が、またしても、分析上、政治上、分離されていくのである。

「ジェンダー・トラブル」p24

 カギかっこつきの「アイデンティティ」は、「構築物」が「構築」するもの、つまり話の流れではカギかっこつきの「女」を指します。そのような「女」というアイデンティティは「誤ったもの」であり、リアルなジェンダーの言説は性の他に「階級・人種・民族・その他の権力関係」と絡まり合っていて分離不可能だからです。それにもかかわらず、「女」を持ち出したせいで、ジェンダーだけが分離されてしまう。もちろんそれは女性として生活する人のほとんどにとって誤った言説です。
 分離された偽りのジェンダーが一人歩きする場がふたつ挙げられています。「分析上」とは、主にフェミニズム内部での議論の場を指します。もうひとつの「政治上」とは立法および行政を指します。いずれも主体の実体化・正当化・自然化とそれ以外の人の排除が生じます。

(#006に続きます)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?