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精読「ジェンダー・トラブル」#039 第1章-6 p60

※ 全体の目次はこちらです。

 今回から第1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」の最終節「六 言語、権力、置換戦略」を1ページずつ精読していきます。

ウィティッグのラディカルなフェミニズム理論は、主体の問題に関するこれまでの理論のなかでは、曖昧な位置を占めるものである。一方で彼女は、実体の形而上学を批判しているようだが、他方で、行為の形而上学的な中心点として人間主体や個人を温存してもいる。

「ジェンダー・トラブル」p60

 ウィティッグについては 50頁(#030 参照)に出てきました。
 「実体の形而上学を批判」とあるのは、ジェンダーを幻想の産物だと主張していることが当たります。
 「人間主体や個人を温存」とあるのは、レズビアンが男と同様の主体となるのだと主張していることが当たります。
 男根ロゴス中心主義がジェンダーという幻想を作り出しているのだが、女が〈男女〉の枠を超えてレズビアンになり、この男根ロゴス中心主義を打破すれば、女(レズビアンに限る)も晴れて主体となれる、というのがウィティッグの主張です。

明らかにウィティッグの人間主義は、行為の背後に行為する人がいることを前提としているが、他方で彼女の理論は、文化の具体的な実践のなかでジェンダーがパフォーマティヴに構築されることを説明するものでもあり、「原因」と「結果」を混同するような説明の時間配列に異を唱えてもいる。

「ジェンダー・トラブル」p60

 レズビアンになれば主体になれる、すなわち自由意志により行為を行う行為者になれるーーこれは「行為の背後に行為する人がいることを前提として」います。

(バトラーによるウィティッグの引用)
唯物論的なフェミニズムのアプローチによって、抑圧の原因や起源と考えられているものが、じつは抑圧者によって押しつけられた単なるしるしにすぎないということがわかってくる。「女という神話」がそれであり、また男によって領有された女の意識や、女の身体に現れているその神話の具体的な効果と発露がそれである。したがって「女」というしるしは、抑圧のまえに存在するものではない。

「ジェンダー・トラブル」p60-61

 「唯物論的なフェミニズム」は次のような主張をします(クリスティーヌ・デルフィはウィティッグの知己で、フランスにおける唯物論フェミニズムの草分けとされる人です)。

資本主義が女性を抑圧・搾取するというマルクス主義の主張を批判的に読み直し、資本主義生産様式以外に、結婚により制度化された社会関係において女性が無償家事労働を強いられる家内制生産様式が存在すると論じ、したがって、女性の「主要な敵」は家父長制であるとした。

Wikipedia:"クリスティーヌ・デルフィ"

 「女という神話」とは〈女とはこういうものだ〉という決めつけのことで、ボーヴォワールの言葉です。
 家父長制が女に〈女とはこういうものだ〉というしるしをつけ、そのしるしを根拠に抑圧が生じるのであって、元々しるしがついているから抑圧を受けるのではない、というのがウィティッグの主張です。

(#040 に続きます)


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