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精読「ジェンダー・トラブル」#041 第1章-6 p62

※ #039 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

たしかにウィティッグは、言語の権力は女を従属させ排除させるものだという考えに同調している。だが「唯物論者」であるウィティッグは、言語は「物質性のもうひとつの秩序」であり、根本的に変化することが可能な制度だとも考えている。言語は、個人の選択によって維持される具体的で偶発的な実践や制度のひとつなのであり、それゆえに、選択する個人の結集した行動によって、その力を弱めることができると考えているのだ。

「ジェンダー・トラブル」p62

 「たしかに〜同調している。」の部分は、それに該当する説明が本書内にないので、そうなんですか、と言うほかないです。
 言語というものは人が生まれる前から存在します。ソシュール曰く、言語は基本的に保守的で、シニフィアンと別のシニフィアンの関係性や、シニフィアンとシニフィエの対応がコロコロ変わったりはしません。言語は保守的であるからこそ、人は意思疎通ができるのです。流行語や新語が少しできたからといって、私たちが日本語に不自由するようになることはありません。
 さらに大事なのは、私たちは日本語を用いて考えていることです。日本語なしには考えることすらできません。人間が考える葦なのだとすれば、私たちは日本語でできているのです(数カ国語を自在に操れる人は、その数カ国語でできています)。
 しかし「唯物論者」であるウィティッグは言語を、資本主義を打倒する共産主義革命のように、革命的な手段で変更が可能なものと考えています。
 個々のフランス人は自由意志によりフランス語を話すことを選択していて、別にフランス語でなければならない理由はなく、たまたま周りがフランス語を話しているから自分もフランス語を話しているだけだ、とウィティッグは考えます。だから周りが別の言語を話せば、「女を従属させ排除させる」フランス語の勢力を弱められる、という論になるのです。「女を従属させ排除させる」ことのない、夢のような言語を作り出し、それを話すようになれば……。
 しかし、フランス語でできた人たちが、その中身をそっくり別の言語に入れ替えてしまうことなどできるのでしょうか。それに、そういった夢想は他ならぬフランス語で思い描いているのではないでしょうか。

彼女の説では、「セックス」という言語上の虚構は、アイデンティティの産出を異性愛の欲望の軸にそって制限しようとする強制的異性愛の制度によって生産され、流通しているカテゴリーである。ある著作のなかでウィティッグは、男の同性愛も、女の同性愛も、さらには異性愛契約と無縁なその他の立場もすべて、セックスのカテゴリーを破壊し、あるいは増殖させる契機になると述べている。

「ジェンダー・トラブル」p62

 強制的異性愛については #027 をご覧ください。女がレズビアンになると抑圧から解放されるという論は #031 をご覧ください。
 「ある著作のなかで〜」以降は、要は家父長制に沿わないもの全部、という意味でしょう。「セックス」という言葉の中に同性愛を含めてしまうと、家父長制という制度が混乱する、ということを言いたいのだと思います。

しかし『レズビアンの身体』その他では、セクシュアリティが性器によって組織化されること自体を問題にし、また生殖という女特有の機能とみなされているものによってしるしづけられる女の従属性の構築に対抗する、オルタナティブな快楽の機構を求めているようにも思える。

「ジェンダー・トラブル」p62

 「セクシュアリティが性器によって組織化される」とは、性器の機能、性器の存在理由からセクシュアリティを演繹的に定めることです。
 「女の従属性の構築」とは、女は膣で快楽を得なさい、と命令することです。1970年代、ラディカル・フェミニズムの間で、男たちは膣オーガズムを強制するな、という運動が起きました(Wikipedia "膣オーガズムの神話")。したがって「オルタナティブな快楽」とは、クリトリス刺激や愛撫による、生殖に直結しない快楽のことです。
 それにしても「膣オーガズムの神話」……。ひとこと「クリトリスも触って」と言えばいいだけじゃん!としか思えないのですが、私が間違っているでしょうか。一生懸命冊子なんか作ったり配布したりして……。まあ、1970年代というのはそういう、箸が転んでも激怒するような時代だったということでしょう。

フロイトは『性欲論三篇』のなかで、性器的セクシュアリティを発達論的に優れたものとみなし、それを、いまだ制限されていない拡散的な幼児期のセクシュアリティの上位に置き、それと対立させるが、ある意味でウィティッグにとって『レズビアンの身体』は、フロイトのこの著作を「倒錯的に」読んだものと考えられる。

「ジェンダー・トラブル」p62-63

 フロイトの性欲論をざっくり言うと、〈性欲動は一般に、母親と一体になりたいという乳幼児期の欲動から始まり、口唇期、肛門期を経て、思春期になると外部の人に向かうようになるが、このプロセスを経ることができないと、倒錯もしくは神経症になりやすい〉、というものです。
 フロイトの考える倒錯とは、対象の倒錯(同性愛)、行為の倒錯(フェティシズム、露出など、性交以外のもの)のことです。

(#042 に続きます)


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