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精読「ジェンダー・トラブル」#027 第1章-5 p47

※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

 47頁の大部分は46頁(#026 参照)の主張を繰り返したものです。46頁の内容を理解していれば文章理解は容易なので、ここで精読はしません。
 要点となるのは次の文です。

ある種の「ジェンダー・アイデンティティ」は、文化の理解可能性の基準に合致しないがゆえに、その文化のなかでは、発達上の失敗とか、論理的不可能性としてしか現れない。だがこの種のものがつねに存在し、増殖していることは、理解可能性の領域に限界があることや、それが規制目的をもっていることをあばき、(中略)ジェンダー混乱の多様なマトリクスを切り拓く批判の機会を与えるものとなる。

「ジェンダー・トラブル」p47

 42頁の精読(#023 参照)で、完全なカテゴリーのことを Excel 一覧表に喩えましたが、バトラーはそれを「理解可能性のマトリクス」と呼んでいます。

だがジェンダーを混乱させるそのような実践について考察するまえに、「理解可能性のマトリクス」について考えてみることが肝要だと思われる。それは単数なのか。

「ジェンダー・トラブル」p47

 これまでの議論の前提は、ひとつの法にたいしひとつのマトリクスがある、というものでした。だから「単数なのか」と言われたら、ひとつの法の中では単数です、というのが答えになるでしょう。もちろん法を跨いだらその限りではありません。

それを構成しているものは何か。

「ジェンダー・トラブル」p47

 46頁(#026 参照)の議論では、セックス、ジェンダー、性的欲望の三者がマトリクスの構成要素として挙げられていました。

セックスのアイデンティティ概念を確立する言説上のカテゴリーと、強制的異性愛の制度のあいだにあると考えられている特殊な結びつきとは、何なのか。

「ジェンダー・トラブル」p47

 「セックスのアイデンティティ概念を確立する言説上のカテゴリー」とは、法的な意味での〈男〉と〈女〉です。〈男〉〈女〉以外の人は法の外に置かれ、いないものとされます。
 「強制的異性愛の制度」とは、学校や職場や家庭で、異性愛者のフリをしないと色々不利益を被ることです。それは〈男〉〈女〉にあてはまらない人の行動を大きく制約し、あてはまる人についても逸脱を許しません。
 この両者に結びつきがあるのは明らかですが、それはどのような結びつきなのでしょうか。

もしも「アイデンティティ」が、言説実践の結果であるなら、セックスとジェンダーと性的実践や性的欲望との関係だと考えられているジェンダー・アイデンティティは、どの程度まで、強制的異性愛とみなしうる規制的な実践の結果なのか。

「ジェンダー・トラブル」p47-48

 「アイデンティティ」が、個々人を貫く固い芯のようなものではなく、規制に応じるために個々人が実践した結果に過ぎないのなら(#026 参照)、その結果のうちどれくらいが、「強制的異性愛」に応じるために行った実践の結果なのででょうか。

(#028 に続きます)


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