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精読「ジェンダー・トラブル」#026 第1章-5 p46

※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

本書が設定する問題は以下のようなものである。

「ジェンダー・トラブル」p46

 この46頁には非常に重要なことが書かれています。結論を先取りするなら、この頁に書かれているのは、本書のメインテーマである〈パフォーマティヴなジェンダー〉の核となる部分の説明です。

つまり、ジェンダー形成やジェンダー区分を規定していく実践は、どの程度アイデンティティーー主体の内的首尾一貫性、実際には、ひとの自己同一的な位置ーーを構築するものなのか。

「ジェンダー・トラブル」p46

 〈ジェンダーとは「ひと」の属性であり、社会によってセックス(生物学的な性)という「区分」の上に「形成」される文化的な性である〉というのはフィクションだ、とバトラーは考えます。そしてこのフィクションは、絶え間ない「実践」によって「規定」され続けることによって、〈客観的な事実である〉という見せかけを保っている、と考えます。
 この実践によって「ひと」という「主体」が実際に存在するように見え、その「ひと」の中に〈首尾一貫したアイデンティティ〉が構築される、とバトラーは言います。
 この「内的」な「アイデンティティ」は、「実際には、ひとの自己同一的な位置」だと言います。〈首尾一貫したアイデンティティ〉という固い芯が「ひと」の中にあるのではなく、たとえば空中に静止しているように見えるドローンが、実は複雑なプロペラ制御の結果であるように、絶え間ない実践の結果により同じ場所に留まっている、その位置が、アイデンティティの正体なのだと言います。

どの程度「アイデンティティ」は、経験を記述した特質ではなく、規範的な理念なのか。

「ジェンダー・トラブル」p46

 「ひと」の中の固い芯から生じる結果が「アイデンティティ」なのではなく、〈首尾一貫していなくてはならない〉という規範のほうが「アイデンティティ」なのでは、とバトラーは言います。
 たとえば、女だから男を好きになって当然、という規範があると、女が好きな女はそれをひた隠しにします。その結果、目に映るのは男が好きな女ばかりとなるので、あたかも異性愛が女の本質(「アイデンティティ」)であるかのように見えてしまう、ということです。
 曖昧さのない、まるで数学における命題のように明晰な「アイデンティティ」というのは胡散臭いのです。夫も子供もいる多くのヅカファンは、本当に純然な異性愛者と言えるでしょうか。あるいは、男女かまわず「しゃぶれ!」と命令するブコウスキー小説の登場人物に、お行儀のいいリーガルな「アイデンティティ」などあるのでしょうか。

またジェンダーを支配している規制的な実践は、文化的に理解可能なアイデンティティという概念をも、なぜ支配するのか。

「ジェンダー・トラブル」p46

 「文化的に理解可能なアイデンティティ」とは、〈この人はこういう人〉とカテゴライズできることです。
 ジャイアンは大柄で粗暴で意外に人情深く、スネ夫は小柄で狡猾で金持ち、というのは今や日本人にとって「文化的に理解可能なアイデンティティ」と言えるでしょう。ですが、小柄で粗暴で人情深い金持ち、というアイデンティティは日本人には理解不可能です。
 ここでジャイ子を思い出してみましょう。初登場時はジャイアンを女にしただけの粗暴な女でしたが、その設定はすぐになかったものとされ、(見た目に似合わず)ロマンチックな少女漫画家を目指す内気な妹、と設定変更されました。
 おそらく藤子先生はすぐに気づいたのでしょうーー女でかつ粗暴というのは矛盾する、と。
 同様に、ドラえもん最初期ではジャイアンはスネ夫の手下でしたが(大人の世界では金持ちが偉いので)、粗暴な男らしい男がずる賢く男らしくない男の手下だというのも矛盾する、と気づいたに違いない先生はすぐに、ジャイアンが上、スネ夫が下、と立場を入れ替えました。
 このように「ジェンダーを支配している規制的な実践」つまり〈男らしさ〉〈女らしさ〉の実践は、「文化的に理解可能なアイデンティティ」つまり〈この人はこういう人〉というパターンを制約し、それを「支配」しているのです。

言葉を換えれば、「ひと」の「首尾一貫性」とか「連続性」というのは、ひとであるための論理的、解剖学的な特性ではなく、むしろ、社会的に設定され維持されている理解可能性の規範なのである。

「ジェンダー・トラブル」p46

 噛み砕くと、「アイデンティティ」は社会にとって都合がいいので、社会によって維持されているのだ、とバトラーは言っています。
 もし「ひと」が、ジェンダー規制の狭い枠内で「首尾一貫性」や「連続性」を備えている不変の存在なのであれば、「ひと」の理解は容易です。そして、そのような紋切り型な「ひと」は、言語と同じく本質的に保守的な法構造と非常に相性がいいのです。

セックスとかジェンダーとかセクシュアリティといった安定化概念によって「アイデンティティ」が保証されるなら、「ひと」という概念が疑問に付されるのは、「首尾一貫しない」「非連続的な」ジェンダーの存在が出現するときである。

「ジェンダー・トラブル」p46

 「セックスとかジェンダーとかセクシュアリティ」といった概念は「アイデンティティ」を安定化させると言います。
 法構造にとってセックスは〈オス〉〈メス〉のいずれかであり、ジェンダーもその根本は〈男らしさ〉〈女らしさ〉のいずれかです。セクシュアリティは性的志向および性自認で、法構造にとってはストレートだけです。
 つまり種類は二つだけで、〈男:オス=男らしい=ストレート〉か〈女:メス=女らしい=ストレート〉のいずれかです。それぞれは首尾一貫しており、途中で変わったりしません。
 ジェンダー・アイデンティティの種類が二つに固定され、それを基盤に「ひと」の「アイデンティティ」が構築されるとき、「ひと」の概念は紋切り型となり多様性が削がれるので、とても安定した概念となり、法構造の安定に寄与します。
 その安定が崩れるとすれば、「アイデンティティ」の基盤であるジェンダー・アイデンティティに法的な異常が生じたときです。オスなのに女らしかったり、男が好きだったりする人が大量に出現したりすると、法構造の安定の要である〈男か女か〉が「疑問に付され」てしまうからです。

「理解可能な」ジェンダーとは、セックスと、ジェンダーと、性的実践および性的欲望のあいだに、首尾一貫した連続した関係を設定し、維持していこうとするものである。

「ジェンダー・トラブル」p46

 〈男:オス=男らしい=ストレート〉、〈女:メス=女らしい=ストレート〉の二者は、客観的事実としてあるのではなく、絶え間ない実践によって、首尾一貫性と連続性を「維持していこう」としないと維持できないものだ、と言います。

換言すれば、連続せず首尾一貫していない奇妙な代物は、連続性と首尾一貫性という既存の規範との関係によってのみ思考可能となるので、こういった奇妙な代物をつねに禁じると同時に生みだしているのは、まさに、生物学的なセックスと、文化的に構築されるジェンダーと、セックスとジェンダー双方の「表出」つまり「結果」として性的実践をとおして表出される性的欲望、この三者のあいだに因果関係や表出関係を打ち立てようとする法なのである。

「ジェンダー・トラブル」p46

 なんと206文字の長大な一文です。「換言すれば」と言っているのに全然分かりやすくなっていません(涙)。ただし一所懸命さだけは伝わります。
 「奇妙な」の原語はおそらく「queer」でしょう。
 「奇妙な代物」、たとえば〈オスなのに女らしい人〉を法的に理解する必要に迫られたとします。法は〈男らしいオス〉しか理解できません。だからこの場合、法はその人を〈男らしいオス〉という「既存の規範」と比較照合し、この人は〈誤って女らしくなったオス〉なのだ、と理解することになります。
 そもそも、法は〈オスなのに女らしい人〉を排除し隠蔽することで存在を「禁じ」ています。が、いくら禁じても現実には、そういう人はひょっこり現れるのです。そんなとき法は、〈この部分がおかしい人〉という形で、新たに存在を認知して社会に「生みだし」ます。
 このような形で「禁じると同時に生みだしている」のは、セックス、ジェンダー、性的欲望の三者間にもっともらしい「因果関係や表出関係を打ち立てようとする法」だと言います。どういうことでしょうか。
 ここでやや唐突に出てきた「性的欲望」とは、法的概念であるセックスおよびジェンダーが前提とするストレートの性的欲望のことで、「性的実践」つまり男は男らしく、女は女らしく振舞い、そして法の期待する通りに性交することで「表出される」ものです。
 法が打ち立てたい三者の関係とは、セックスが原因、ジェンダーが結果、そしてセックスとジェンダーを表出したものが性的欲望、という関係になります。

(#027に続きます)

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