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精読「ジェンダー・トラブル」#042 第1章-6 p63

※ #039 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

 同性愛が抑圧的な「セックス」という虚構を破壊する、というウィティッグの主張の続きです。

フロイトが「同性愛」の医学分類とした「倒錯者」だけが、性器にまつわる規範を「達成」することができないので、性器中心主義に対して政治批判を試みようとするウィティッグは、「倒錯」を批判的読みの実践とみなし、未発達のセクシュアリティだとフロイトが決めつけた特質の方に価値を置いて、「ポスト性器的な政治」をうまく発動させようとしているらしい。

「ジェンダー・トラブル」p63

 前頁(#041)の内容が頭に入っていれば、この文の意味については説明は不要でしょう。
 セクシャリティを生殖の観点から組織化することが女の抑圧につながっているのだから、それをやめればいい、という主張です。
 しかしこれでは解放はおろか、批判しているはずのフロイト的な世界をまるごと温存することになります。レズビアンが主体になる、という話(#030 参照)でもそうでしたが、彼女の主張は小手先だけで、響くものがありません。

言葉を換えれば、拡散的で非性器的なセクシュアリティのモデルが、覇権的なセクシュアリティの構造に対抗する唯一の選択肢だと言うのなら、こういった二元的な関係は、どこまで無限に繰り返されていくのか。対立的な二分法そのものを破壊するための、どんな可能性が存在しているのか。

「ジェンダー・トラブル」p63

 〈覇権的なほうがいやだから、その逆を選ぶ〉という発想は、覇権的なほうが覇権的であり続けないと成立しません。そういった、覇権的なセクシュアリティに依存した選択をとり続けても、「対立的な二分法そのものを破壊する」可能性はゼロのままです。

ウィティッグは、ジェンダーのしるしづけは偶発的で、根本的に可変的で、またそれなしでも済ませられるものだと理解している。他方ラカン派の精神分析にとっては、一次禁止の位置は、フーコーの規制的実践の概念や、異性愛の抑圧制度についてのウィティッグの唯物論的な説明よりも、もっと強制的に、もっと偶発性が少なく作用しているものである。

「ジェンダー・トラブル」p63-64

 ウィティッグは、ジェンダーのしるしづけは強制的異性愛という制度によってなされると考えました。そしてこの強制的異性愛は、存在理由に必然性がなく、よって変えることができ、なくすこともできる、と考えました。
 文中「フーコーの規制的実践の概念」とありますが、少なくとも『性の歴史1』日本語訳にそのような語句は使用されていません。おそらくは「規則的実践」の誤訳で、それは教会における告白の諸ルールを指します。
 「ウィティッグの唯物論的な説明」とは、家父長制維持のために女が〈女だから云々〉とラベリングされることです。
 これらはいずれもラカン派の「一次禁止の位置」よりも強制性、必然性に劣るとバトラーは言います。
 「一次禁止」とは、人が最初に経験する禁止である〈エディプス・コンプレックス〉、および近親相姦の禁止を指します。エディプス・コンプレックスについては下記サイト後半部分をお読みください(超分かりやすいです)。

(#043 に続きます) 


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