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精読「ジェンダー・トラブル」#043 第1章-6 p64

※ #039 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

 今回はアカデミズムの世界において〈ラカンわからん〉で有名なラカンが出てきます。
 私は思想家の考えを学ぶとき、とりあえず原典(の日本語訳)を開いてみることにしています。内容が一部しか分からなくても、解説書は見ずに、とりあえず読み進めます。思想で大事なのは、結論ではなく、あーでもない、こーでもない、という思考のプロセスだと思うからです。また、原典はやはり文章に迫力があります。
 しかしラカン に限っては、原典を見てもなにひとつ理解できなかったので、もっぱら解説書頼みです(しかも解説書すら難しい)。
 ですので、本稿にあるラカンの解説もどきは、ラカン本人の文章が理解できない人の手による、極めて怪しい内容のものですので、その点ご了承の上お読みくださるようお願いします。

男性的な「主体」とは、近親姦を禁止し、かつ異性愛化の欲望の無限の置き換えを強制する法によって生みだされる架空の構築物である。

「ジェンダー・トラブル」p64

 ラカンにとって「主体」とは、言語でできた〈欲望の主体〉です。
 〈欲望〉とは人間以外の動物は欲しない、人間ならではの欲で、たとえば〈お金が欲しい〉というのが〈欲望〉に当たります。それにたいし〈腹減ったからなんか食べたい〉というのは〈欲動〉と言います。〈欲動〉は満たすことができますが、〈欲望〉を完全に満たすことはできません。
 〈欲望〉についてのラカンの有名な言葉に〈欲望は他者の欲望である〉というのがありますが、この〈他者〉とは〈父の法〉と呼ばれる〈言語〉のことです。〈お金が欲しい〉という〈欲望〉は、言語を得てはじめて可能になるのです。そして〈お金が欲しい〉とは誰もが思うことですので、それは「主体」の〈欲望〉というよりは、すでに他者が抱いていた〈欲望〉であり、「主体」の外部にある〈言語〉なのです。
 男性的な〈主体〉は自由意志を持った行為者ではなく、「架空の構築物」に過ぎないとありますが、これはどういういことでしょうか。
 〈主体〉となれるのは男に限定されます。〈欲望〉の大元は〈ファルス〉(象徴的な勃起ペニス)であり、ファルスはエディプス期において男児にのみ与えられるからです。勇者の剣やガンマンの拳銃(つまり、固くて細長くて先から何か出てくるもの)のほかに、エリートの学歴、勤め先、年収、資産等、マウントが取れるものはすべて〈ファルス〉です。
 エディプス期に〈父〉によって〈母〉から切り離された男児は、〈母〉に〈父〉のようなペニスがないこと、および、〈母〉が求めているのは自分ではなく〈父〉のペニスであることを知ります。そして自分も〈父〉のようなペニスが欲しくなり、その代替物である〈ファルス〉を生み出します。そして〈母〉のペニス欠損を埋めようと欲します。これが「異性愛化の欲望」です。
 言語は必ず何かの代替物であることを考えると、ペニスの代替物である〈ファルス〉もまた言語です。そして〈欲望〉の正体は言語(〈他者の欲望〉)でしたが、〈ファルス〉はこの〈欲望〉の大元です。しかし〈ファルス〉はしょせん代替物ゆえ、完全に満たされることはありません。
 男が何かを欲望するとき、それは「異性愛化の欲望」の「置き換え」であり、それは満たされないゆえ「無限」に続きます。
 なにを言っているのか分からない、と思われる方がほとんどだと思います。安心してください。それが普通です。ラカンのセミナーに参加したレヴィ=ストロースが「まったく分からなかった」と嘆くくらい、ラカンは難解なのです。もしよろしければ図書館へ行った折、ラカンの入門書をなんでもいいので一冊手にとって、〈ラカンわからん〉を体験してみてください。
 下世話な言い方をすれば、世の男はみな性欲に振り回されていて、すべての行動の目的が〈モテるため〉という一点に収斂している、そしてそうなることはあらかじめ「法」に仕組まれたことなのだ、だから男は欲望の主体ではない(欲望は外からやってきて、男を振り回す)のだ、となります。

女性的なものは、けっして主体のしるしにはならない。女性的なものは、ジェンダーの「属性」にはけっしてなりえない。むしろ女性的なものは欠如の意味であり、《象徴界》ーーすなわち、性差を有効に生みだす差異化の言語法則ーーによって意味づけられるものである。

「ジェンダー・トラブル」p64

 フロイトやラカンは女を、ペニスが「欠如」した存在であると考えます。そして、男の欲望がファルスを中心に組織された言語であるのに対し、女の欲望はそのように組織化されておらず、言語の外にある、と考えます。主体=欲望の主体であり、欲望=言語と考えるとき、女の欲望は言語で表現できないゆえに、欲望の主体ともなりえず、したがって「女性的なものは、けっして主体のしるしにはならない」となります。
 男性的なものはファルスで象徴できるのに対し、女性的なものを何かで象徴することはできません。したがって「女性的なものは、ジェンダーの『属性』にはけっしてなりえない」となります。
 おっぱいは女性の象徴となるのではないか、と思われる方も多いでしょうが、フロイトやラカンの論でおっぱいが言及されることはありません。おっぱいというものは、自分にとってどうかよりも、人から見てどうかのほうがはるかに大きいからかもしれません。もしおっぱいがファルスと同等物となるのならきっと、マジンガーZに登場するアフロダイAのおっぱいミサイルを見ても、おかしくもなんともないはずです。

 「象徴界」は言語の体系です。言語で直接言い表すことのできない女の欲望は、「象徴界」の体系において、ファルスでないもの、という否定的な形で意味づけられます。おっぱいはあくまでファルスでないものであって、ロケットがおっぱいの象徴となることはないのです(いっぽうマジンガーZのロケットパンチはまぎれもないファルスです)。

男性的な言語位置は、《象徴界》の法ーー《父》の法ーーの基盤をなす禁止によって要求される個体化と異性愛化を経験する。息子を母から引き離し、それによって両者のあいだに親族の関係を樹立する近親姦タブーは、「《父》の名のもとに」制定された法である。

「ジェンダー・トラブル」p64

 「男性的な言語位置」とは、男を〈ファルスを中心に組織化された欲望という言語〉と見立てた言葉です。単に〈男〉と言い換えてもいいでしょう。男性的な主体が架空の構築物であると言った後なので、こういう言い回しをしています。

同様に、女児が母と父のどちらにも欲望することを禁じる法は、女児に対して、母性という符牒を身につけ、親族の規制を永続化させることを求めるものである。

「ジェンダー・トラブル」p64

 「女児が母と父のどちらにも欲望することを禁じる法」とは、母子分離を行う「《父》の法」と、近親婚の禁止のことです。「母性という符牒」は、文化人類学における部族をまたいだ婚姻で行われる女の交換に代表的な、出産という目的を女に与えることです。そして「親族の規制」すなわち近親婚の禁止を永続化させようと法は目論みます。

このように男性的な位置も女性的な位置も、文化的に理解可能なジェンダーを作りだす《禁止》という法によって制定されるが、それがなされるのは、ひとえに、想像されるもののなかにふたたび登場する無意識のセクシュアリティの生産によってなのである。

「ジェンダー・トラブル」p64

 エディプス ・コンプレックスは無意識のうちに行われるとされます。そしてラカンによれば、無意識は言語の形をしています。そのような無意識=言語は、「《父》の法」という「《禁止》」によって生じました。
 このような「《禁止》」は、「想像されるもの」すなわち男が女に、女が男に投影するセクシャルな理想像(#034 参照)に「ふたたび登場」します。

性差を自論に組み込むフェミニズムは、たとえラカンの男根ロゴス中心主義に対立するものであれ(イリガライ)、ラカンを批判的に説明しなおすものであれ、女性的なものを理論化しようとするが、そのさいに女性的なものを実体の形而上学の表出としてではなく、意味機構を排除によって基礎づける(男性性の)否定がもたらす表象不能な不在として、理論化しようとする。こういった制度の内部で否認/排除される女性的なものは、覇権的な概念計略を批判し、崩壊させる可能性を構築するものである。

「ジェンダー・トラブル」p64

 イリガライについては #015 をご覧ください。
 「覇権的な概念計略」とは「《父》の法」と近親婚の禁止のことです。これらの欠点は、それがあまりに男側に偏った視点でできているので、女を表象できない点です。だからひょっこり女が現れてしまうと、立ち行かなくなる可能性があるのです。

(#044 に続きます)


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