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精読「ジェンダー・トラブル」#044 第1章-6 p65

※ #039 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

ジャクリーヌ・ローズやジェーン・ギャロップがそれぞれ違ったやり方で強調しているのは、性差が社会の構築物であること、またその構築物が本質的に不安定であること、また禁止は性的アイデンティティを制定すると同時にその構造基盤の脆弱さをあばく二重の効果をもっているということである。

「ジェンダー・トラブル」p64-65

 ローズもギャロップも私の知らない人です。ネットで調べてもあまりよく分かりません。二人ともフロイトやラカンに詳しい人のようです。

ウィティッグなどフランスの唯物主義フェミニストなら、性差は、物象化されたセックスの二極を精神を介在させずに繰り返すものだと言うだろうが、このような批判は、無意識という重要な次元ーーすなわち、抑圧されたセクシュアリティの場所として、主体の言説の内部に、主体の首尾一貫性を不可能にさせるものとして再登場するものーーを無視している。

「ジェンダー・トラブル」p65

 「物象化されたセックスの二極を精神を介在させずに繰り返す」とは、男女という二つの実体が、家父長制(女へのラベリングと性別役割分業)により自動的に再生産される、ということです。
 このような考えはあまりにも硬直的で、実体の形而上学に染まり切っており、「物象化されたセックス」を絶対視しています。しかし「無意識という重要な次元」を考えれば、それほど堅牢なものでもないことが分かる、とバトラーは言います。
 無意識は「主体の首尾一貫性を不可能にさせる」とあります。
 「主体」はここでは〈欲望の主体〉のことではなく、唯物論者の考えるような、実体の形而上学における「主体」である〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉のことです(#026 参照)。これらの、統合で結ばれた首尾一貫性は、「主体の言説の内部」において不可能になると言います。
 「主体の言説の内部」という言葉には奇妙な感じを受けます(言説に内部も外部もありません)。が、これが〈主体を主語にした言説が前提とすること〉という意味であるとするなら、「抑圧されたセクシュアリティ」(すなわち《父の法》によって禁止されたもの)が押し込まれた場所である無意識が言説を生み出すとき、その言説の前提事項が、「主体」の首尾一貫性と矛盾する、ということを言っていることになります。
 無意識の正体は言語でした。そして言語は徹底して男視点によるものでした(前提)。もちろんそれは実体の形而上学が作り出すような男女二元体とは矛盾します。
 「抑圧されたセクシュアリティ」はエディプス期より後は出てこないことになっていますが、実際は「再登場」したりします。

ローズがはっきりと指摘しているように、男性性/女性性という分離軸にそって首尾一貫した性的アイデンティティを構築しようとする行為は、かならず失敗する。抑圧されたものがふいに姿を現すことによって、この首尾一貫性は崩壊し、「アイデンティティ」が構築物だということだけでなく、アイデンティティを構築している禁止が無効であることも明るみにしていく。(父の法は、決定論的な神の意志としてではなく、永続的な失敗であり、たえず父への反乱の土壌を用意するものだと理解すべきである)。

「ジェンダー・トラブル」p65

 実体の形而上学に則り、〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉という「首尾一貫した性的アイデンティティを構築しようとする行為」は、「抑圧されたものがふいに姿を現すことによって」「首尾一貫性」が「崩壊」するので、「かならず失敗する」とあります。これについては #037 をご覧ください。
 「アイデンティティを構築している禁止が無効」とは、拡散した性欲動を持つ幼い男女にあれこれ禁止を施すことによって異性愛に導くことが、失敗することを意味します。
 しかし「かならず失敗する」「永続的な失敗」と断言するのは、ローズという人の(そしてバトラーの)個人的願望に過ぎない気がします。「かならず失敗する」のであれば、「男性性/女性性という分離軸」はこの世に存在しないことになるからです。

ウィティッグは実存的=唯物論的なやり方で、主体(ひと)には前−社会的で前−ジェンダー的な全一性があると想定している。他方、ラカン派の「父の《法》」や、イリガライが断罪する男根ロゴス中心主義の一方的な支配には、一神教的な単一性のしるしが刻まれているが、これは、その説明が拠り所としている構造主義の仮説が想定しているほどには、統一的でも、文化的に普遍的なものでもない。

「ジェンダー・トラブル」p65-66

 ウィティッグについては #030 をご覧ください。
 「一神教」は父なる唯一神が猛威を振るうユダヤ教のことです。「父の《法》」、とりわけ近親相姦の禁止は、レヴィ=ストロースに代表される構造主義においては普遍的な真理ですが、実際はそれほどでもないそうです。構造主義については第2章で取り扱います。
 余談ですが、ユダヤ教の神はとてつもない力を持っているいっぽう、ユダヤの民を手懐けるのには苦労しっぱなしで、民はすぐに異教に心惹かれてしまいます。バトラーはユダヤ教徒ですので、「父の《法》」に対し、そのような、頑張っているんだけどうまくいかない、というイメージが頭の中にあるのかもしれません。

(#045 に続きます)


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