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精読「ジェンダー・トラブル」#015 第1章-3 p33

※ #012 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

 次の一文は、社会科学者がジェンダーをどう理解しているかを紹介したものです。

後者(=身体をもつ人間)の場合は、ジェンダーは(すでに)セックスによって差異化された身体が身におびる意味づけだが、そのときも、対立する片方の項との関係においてのみ可能な意味づけとして理解されている。

「ジェンダー・トラブル」p33

 バトラーによれば、社会科学者はジェンダーを言語と同じような文化的差異と考えます。そのように考えると、ジェンダーの本質もまた差異なので、それ自体では意味を持たず、言語のように他との差異によってのみ意味を持つ、となります。たとえば洋服の色がこれに当てはまります。メンズの色は総じて暗く、ウィメンズの色は総じて明るいです。しかし、メンズの中にも明るい服はあります。が、それに対応するウィメンズはもっと明るかったりします。
 しかし、このように「関係においてのみ」意味づけられるジェンダーというのは、実はあまり思いつきません。ココ・シャネルがデビューしたての頃は、女はスカート、男はズボン、という関係性がありましたが、いまではズボンはどちらも履きます。
 ですので、ジェンダーをもっぱら差異だと考える社会科学者の見解は間違っていそうです。

 次の一文はボーヴォワール親派の意見をまとめたものです。

女のジェンダーだけがしるしづけられ、男のジェンダーは普遍的人間と融合してひとつのものとなる。ゆえに、女はセックスによって定義づけられるが、男は身体を超越した普遍的な人間性をもつものとして崇められるのだと。

「ジェンダー・トラブル」p33

 これは、ジェンダーは差異ではなく、非対称的に身体に作用するものだ、という意見の代表例と言えるでしょう。

 このボーヴォワールの考えをさらに進めたものとして、イリガライの主張が紹介されます。

女は「ひとつ」ではない「セックス」である。

「ジェンダー・トラブル」p33

 イリガライはラカン派のフェミニストで、ラカン派の言葉遣いで話します(ラカンはフロイトの後継者を自認する精神分析家です)。彼女が「男は〜」「女は〜」というとき、それは現実の男女を言っているのではなく、〈象徴界〉における男女の話をしているのです。象徴界をざっくり言うと、「そんなことをしたら人に迷惑がかかるでしょ」と言うときの「人」であり、「人」に迷惑をかけてはいけないというモラルです。象徴界はほぼ言語であり、人に力を及ぼすあたり言説とよく似ていますが、言説よりも道徳性、規範性が高いのが特徴です。
 イリガライの言う「女」もまた、人が漠然と「女っていうのは〜」とか「女なんだから」とか言うときの「女」です。
 イリガライの言う「セックス」は、バトラーの言う〈ジェンダー化された身体〉と同じだと考えて問題はないでしょう。それが「ひとつ」ではない、とイリガライは言います。
 カッコ付きの「ひとつ」とは、ボーヴォワールの言う、女というセックス(=生物学的性差 ※バトラー流解釈によればオスも含みますが)によって一律に定義づけられた身体のことです。
 以下、女の「セックス」(=ジェンダー化された身体)が「ひとつ」(=一律)でないことの説明が続きます。

あまねく浸透している男性中心主義の言語ーー男根ロゴス中心主義の言語ーーの内部では、女は表象不能なものを構築する。換言すれば、女は思考できないセックス、つまり言語上の不在や不透明さを表象している。

「ジェンダー・トラブル」p33

 「男根ロゴス中心主義」というのはなんともおどろおどろしい名前ですが(また note から成人指定を食らってしまいそうです……)、その仰々しさに反して大した意味はありません。〈憎たらしい男社会〉ぐらいの意味です。
 「表象不能なものを構築する」とは、要は、男がよく言う〈女は分からない〉というセリフのことです。〈そうそうオレも分かんねえよ〉〈やっぱそう?〉〈女って謎だよね〉といった感じで表象不能な女が構築されていきます。
 これと、女がよく言う〈男は分からない〉との違いはなんでしょう。
 〈女は分からない〉という男の嘆きは、女がいようがいまいが発せられます。いっぽう〈男は分からない〉という女の嘆きは女同士、あくまで陰でコソコソとなされ、男のいる前で言われることはありません。
 なぜそういう非対称なことが起きるかというと、「男性中心主義の言語」つまり男視点による象徴界が「あまねく浸透している」からです。

単声的な意味づけに安住する言語においては、女のセックスは抑制できないもの、名づけえないものを構築する。この意味で、女は「ひとつ」のセックスではなく、多数のセックスである。

「ジェンダー・トラブル」p33

 「単声的」つまり男の声だけで成り立つ象徴界においては、女の「セックス」(=身体)は「抑制できない」(=〈女は〜である〉と制限できない)、「名づけえない」(=表象できない)ものとして構築される、とイリガライは主張します。
 象徴界において、女の身体のありように制限がなく、その身体が〈その他〉としか呼びようのないものであるとき、女の身体はボーヴォワールが考えるように「ひとつ」には定まらず、「多数のセックス(=身体)」となる、と言うことができます。

女は《他者》と名づけられていると主張するボーヴォワールとは逆に、イリガライは、主体も《他者》も両方とも、男社会を支える大黒柱であって、女性的なものを完璧に排除することによって全体化という目的を達成する閉じた男根ロゴス中心主義の意味機構エコノミーを支えるものだと言う。

「ジェンダー・トラブル」p33

 ボーヴォワールが女を《他者》と呼ぶ理由は、普遍的な男(=サルトル的な主体)から見て、女はジェンダーでしるしづけられた男とは別の存在だからです。
 では、イリガライにとっての《他者》とはなんでしょうか。
 警察官を例に説明します(このあいだ「週刊少年マガジン原作大賞」に警察モノのフィクションを投稿したところです。よかったら読んでみてください)。
 〈警察官〉と言えばほとんどの人は男性警察官を想像するかと思います。というのも、ちょっと前までは女性の警察官は〈婦人警察官〉という別の呼び名だったからです。
 〈警察官〉は警察組織という男社会における主体であり、〈婦人警察官〉は〈婦人である〉というしるしのつけられた〈他者〉です。ここまではボーヴォワールと同じです。
 このしるしづけられた〈婦人警察官〉はもっぱら交通課や生活安全課に配属され、ミニパトで駐車違反を取り締まったり、子どもの非行に関わったりと、安全性の高い職域で仕事をします。いっぽう警察の花形である刑事課は男ばかりです。
 このような振り分けは、〈か弱い女には危ない仕事をさせられない〉という男側の信念によりなされます。しかし〈婦人警察官〉は、自衛隊よりも厳しいと言われる警察学校において男と全く同じ訓練を経て警察官になっているので、か弱いなんてことは絶対にありませんし、本人も自分や同僚の婦人警察官のことをゴリラだと思っています(by『ハコヅメ』)。にもかかわらず〈婦人警察官〉は、〈婦人である〉というしるしのせいで、たとえ刑事に憧れていたとしても、刑事になることは叶いません。
 この時点で、男の考える女像と女自身の考える自己像との間には埋めようのない亀裂があることが分かります。女にとって〈女〉の表象はつねに誤っているのです。
 そして社会は徹底して、この誤った、男の考える女像に沿う形で進んでいきます。女の側に主導権はなく、男がどう考えるかによって、一貫しない、様々な「多数のセックス(=身体)」が生じることになるのです。
 イリガライにとっての《他者》とは、この、男の考える女像のことです。

(#016に続きます)


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