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精読「ジェンダー・トラブル」#034 第1章-5 p54

※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

女が「女のように感じる」と言ったり、男が「男のように感じる」と言うとき、どちらの場合も、意味のない同語反復で言っているのではないと思われている。

「ジェンダー・トラブル」p54

 「女のように感じる」、「男のように感じる」などと日本語では言わないので、慣用句なのかな?と思い〈I feel like a man.〉を DeepL で翻訳してみると、〈男になった気分だ〉〈男らしくなった気がする〉と翻訳されました。
 男が〈男になった気分だ〉とは言わないでしょうが、〈男らしくなった気がする〉なら言ってもおかしくありませんので、「意味のない同語反復で言っているのではない」ことが分かります。

既存の解剖学存在で「ある」ことが何の問題もないことのように一見見えてはいるが(そう思うこと自体、困難さをともなうことは、のちに論じるつもりである)、ジェンダー化された精神気質や文化的アイデンティティの経験は、後天的に獲得されるものとみなされている。

「ジェンダー・トラブル」p54

 「既存の解剖学存在で『ある』こと」の例を挙げると、胎児のエコーを見た医師が「女の子ですね」と言う時、〈胎児は女で「ある」〉と言っていることになります。胎児は主体ではありませんし、行為をしたりはしませんが、〈〜である〉という物言いは成立します。一見問題がなさそうに思えますが、性器の形に異常がある時(Wikipedia "性分化疾患")、〈〜である〉という物言いにより「困難」が生じることは55頁以降に述べられます。
 「ジェンダー化された精神気質」とは、いわゆる〈男らしさ〉〈女らしさ〉です。「文化的アイデンティティの経験」とは、〈自分はこの種の男/女(あるいは〈その他〉)である〉という自己認識にいたる経験のことです。ジャイアンとスネ夫はともにオスですが、男らしさの気質や、どのようなタイプの男かについてはずいぶん違いがあることから、それらは性器の形のように先天的なものではなく、後天的に獲得されたものなのだ、と通常考えられています。

そうならば、「女のように感じる」ことが真実となるのは、アリサ・フランクリンの「あなたのせいで当たり前の女のように感じる」という言葉にみられるように、女を定義する他者を引き合いに出すかぎりにおいてのみである。

「ジェンダー・トラブル」p54

 これはキャロル・キング作詞の (You Make Me Feel Like) A Natural Woman という曲です。

 沁みる歌だなァ、と余韻に浸る間もなく、無粋な議論は続きます(笑)。
 あなたが私を女として扱ってくれるから、私はまるで女になったように感じるーーここで「女を定義する他者」とは、直接的には男である「あなた」です。
 このような「女のように感じる」という「文化的アイデンティティの経験」の積み重ねにより、後天的に〈自分は女である〉というジェンダー・アイデンティティが生まれます。そうなるには「あなた」という他者が欠かせないのです。

このようにして獲得されるジェンダーは、それと対立するもう一方のジェンダーと区別される必要がある。したがってひとがあるジェンダーであることは、そのひとがもう一方のジェンダーでないということであり、この公式はその前提として、ジェンダーを例の二元的な対に閉じ込めるとともに、それを強化するものでもある。

「ジェンダー・トラブル」p54

 「女を定義する他者を引き合いに出すかぎりにおいてのみ」女というジェンダーが獲得されるのなら、そのジェンダーは「他者」に全面的に依存することになります。
 この「他者」は誰なのか。それは直接的には場面によりいろんな人が該当するでしょうが、それにもかかわらず首尾一貫した、統一的な〈女〉というジェンダーが獲得されるのなら、いろんな「他者」の背後に唯一の特別な他者があるとしか考えられません。それは法構造であり、言語であり、覇権的な文化です。
 法構造や言語、覇権的な文化は、ジェンダーを〈男女が対になったひとつの関係性〉と考えます。したがって〈女〉は〈男〉の否定という形で定義されます。
 そのような〈女〉に人を収斂させていく形でジェンダーが獲得される時、その人には「例の二元的な対に閉じ込めるとともに、それを強化する」方向に力が及ぼされます。

ジェンダーは、セックスとジェンダーと欲望の三つの経験を統一した意味だというのなら、それは唯一、セックスがなんらかの意味でジェンダー(自己の精神的および/または文化的な呼称)と欲望(異性愛の欲望、つまり欲望の対象であるもう一つのジェンダーとの対立的な関係をとおしてそれ自身を差異化するもの)を必然的にともなうと考えた場合のみである。ということは、男女それぞれのジェンダーの内的一貫性や統一性には、安定した対立的な異性愛が必要であるということになる。

「ジェンダー・トラブル」p54

 46頁(#026 参照)で出てきた〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉の二元体が再掲されたあと、それが可能となるには「安定した対立的な異性愛が必要である」と言っています。
 なぜ同性愛だとダメなのでしょうか。その理由はこの少し後に述べられます。

この制度的な異性愛は、対立的で二元的なジェンダー制度のなかにジェンダーの可能性をもつような、各ジェンダーの単声性を必要とし、またそれを作りだしもする。

「ジェンダー・トラブル」p54

 セックス、ジェンダー、性的欲望の三者を統一させ、一対のジェンダーとするために異性愛が求めれられることを「制度的異性愛」と呼んでいます。
 この「制度的異性愛」には「各ジェンダーの単声性」が必要だと言います。「単声性」とは〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉以外の組み合わせがないことを言います。ジャイアンとスネ夫はずいぶん違いますが、同じ〈男:オス=男らしい=ストレート〉の範囲内にいます。
 また「制度的異性愛」は、強制的異性愛(#027 参照)で見たようなやり方で「それ(単声性)を作りだしもする」と言います。「制度的異性愛」に疑問を持たない多くの人から見ると、クイアな人は〈男〉や〈女〉へ向かうベクトルとは全然別の向きにいるので、気持ち悪く見えてしまうのです。

こういったジェンダー概念は、セックスとジェンダーと欲望のあいだに因果関係があることを前提とするだけでなく、欲望とジェンダーは相互に反映、表出しあうものだということも示唆している。

「ジェンダー・トラブル」p54-55

 〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉それぞれの内的な一貫性については46頁(#026 参照)ですでに述べられています。
 ここではそれに加えて、〈男らしい〉と〈女らしい〉、〈ストレート(女が好き)〉と〈ストレート(男が好き)〉はそれぞれ、「相互に反映、表出しあう」のではないか、と言っています。そのことを、「こういったジェンダー概念」つまり男女の一対しかない、それゆえすべてがあべこべなジェンダー概念は示唆しています。

(#035に続きます)


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