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精読「ジェンダー・トラブル」#035 第1章-5 p55

※ #025 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。

この三者の形而上学的な統一は、対立するジェンダーを差異化しようとする欲望のなかでーーすなわち、二つの対立するセックスを有する異性愛の形式のなかでーーはっきりと確認され、また表現されると仮定されている。

「ジェンダー・トラブル」p55

 「この三者」とは、セックス、ジェンダー、性的欲望のことで、これらが〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉という形で統一されていると前提することが「形而上学的な統一」です。
 これら二つの「対立するジェンダー」は、「対立的な関係をとおしてそれ自身を差異化」(54頁 #054 参照)しようと「欲望」します。それが「異性愛の形式のなかで」行われるとは、どういうことでしょう。
 ある女がある男から愛されるとき、彼は〈女〉という「三者」の統一体を定義し、身振り口ぶりなどで彼女にそれを伝えます。そして彼女はその〈女〉になろうと「欲望」し、現実の彼女から彼にふさわしい〈女〉へと自身を差異化しようとします。男の場合も同様に、現実の男から彼女にふさわしい〈男〉へと自身を差異化しようとします。そうやって男は女を、女は男を差異化しようします。これが、「異性愛の形式のなかで」行われる、の意味です。
 このような異性愛の物語の中において、セックス、ジェンダー、性的欲望の「三者」は「はっきりと」一体をなしており、また、男女の愛情表現がその一体性を「表現」している、と「仮定」されているーーというよりも、一体性を実現させるために「制度的異性愛」(54頁 #054 参照)が持ち出されている、と言った方がより正確です。

強制的で自然化された異性愛制度は、男という項を女という項から差異化し、かつ、その差異化が異性愛の欲望の実践をとおして達成されるような二元的なジェンダーを必要とし、またそのようなものとしてジェンダーを規定していく。二元体の枠組みのなかで二つの対立的な契機を差異化する行為は、結局、各項を強化し、各項のセックスとジェンダーと欲望のあいだの内的一貫性を生みだすのである。

「ジェンダー・トラブル」p55

 ここまでの議論がコンパクトに整理されています。
 一つ目の文の意味は上で説明したとおりです。
 二つ目の文にある「二元体の枠組みのなかで二つの対立的な契機を差異化する行為」とは、要は二人の男女が愛し合うことです。「二つの対立的な契機」とは、現実の女が〈女〉へ、現実の男が〈男〉へと向かおうとするときの、現実の男女のことです。この「契機」はヘーゲル用語で、変化する前の要素くらいの意味です。

この種の二元的関係と、それが依拠している実体の形而上学が戦略的に置き換わることの前提には、オスとメスのカテゴリー、男と女のカテゴリーが、二元的な枠組みのなかで同じように生みだされるということがある。

「ジェンダー・トラブル」p55

 ここでの「実体の形而上学」は、〈ひと〉が実体としてあり、その〈ひと〉は男女いずれかのジェンダー属性を持っている、という前出(#016 参照)のものではなく、〈ジェンダーは実体である〉という前提のことです。もちろんバトラーは、ジェンダーは実体ではなくパフォーマティヴなものだと考えています(#026 参照)。
 〈ジェンダーは実体である〉と前提をおくことで、ジェンダーは〈男:オス=男らしい=ストレート〉〈女:メス=女らしい=ストレート〉の一対の三点セットしか存在しなくなり、男女がきれいに対称をなす「この種の二元的関係」が成立します。
 逆はどうでしょうか。男女の対称的な関係は制度的異性愛によって維持・強化されました。すると、男はより〈男〉へ、女はより〈女〉へと向かいます。
 その結果がジェンダーの実体化に寄与するためには、「男と女のカテゴリー」が、解剖学的に定まる「オスとメスのカテゴリー」と同じように、〈男らしさ〉〈女らしさ〉を構成する諸要素を解剖学的に調べることで定められるようでなくてはなりません。そうでないと、セックスとジェンダーを統一体として認識できないからです。

(#036に続きます)


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